★あと1か月で89歳になる。
そんなに生きるとは全く思ってもいなかった。
振り返ってみるとオモシロイ人生だったと思う。
子供の頃は、朝鮮にいて間違いなく「良家のボン」だった。
父は何をしてたのかよく解らない。
家で絵を描いたり、のんびりとしてたが、会社などには行っていなかった。
父と特に話をした記憶などもないのだが、
何となく、私は父が好きだった。
祖父が朝鮮で立ち上げた電力会社を伯父が継いだので、
父は多分その配当などで悠々自適の生活だったのだと思う。
その南鮮合同電力は今の韓国の地域担当の電力会社で、
その規模は大きかったのである。
そんな生活が終戦で一変し、明石に引き揚げてきたのが終戦の年の12月で、
翌年4月に神戸一中に入学するのだが、私は試験など受けてはいない。
父に「お前は試験もなしに入学出来たのだから、勉強はちゃんとやれ」
と言われたのである。
多分、伯父の伝手か何かの裏口入学であったことは間違いない。
そんなこともあったので中学2年生までは勉強もちゃんとして、
学年の中で10番以内にいたのだが、
このことが人生を通しての自信に繋がっているのである。
「名門神戸一中」と言われて秀才が集まり、その50番までを「特」というのだが、
「特」は間違いなく指定席だったのである。
中学3年生の時に男女共学となって、県一女と一緒になったのだが、
英語と数学などは1年、授業の内容が逆戻りしたので、
中学3年生以降は、勉強した記憶が全くないのである。
神戸一中はほんとに名門だったのだろう、
昭和天皇の戦後初めての神戸行幸の時には神戸にお泊りになるホテルがなくて、
神戸一中の教室を改造されてお泊りになり、
私のクラスは天覧授業の栄に輝いたのである。
ほんとにまだ戦後で、
社会などの科目も、歴史の教科書もなかったからそんな科目は習ていないのである。
その代わり英語・数学・国語などは非常に高いレベルの教育だったのだと思う。
★英語などもスタートは、
This is a pen.から始まったのだろうが、
1年の夏休みの宿題に『「舌きり雀」の物語の英文』があって、
それはこんな英文から始まるのである。
Once upon a time, there lived an old man and his wife.
They treated the bird tenderly as if it were their child. ・・・・・
『as if it were』などのムツカシい表現がある文章で、
そんな宿題だったものだから、今でも覚えているのである。
これは『まるで自分の子供のように可愛がった』ということなのである。
こんなレベルでの授業に2年間は頑張ばったのだが、
私はそれ以降は全く勉強などしていないので、「学歴は中学卒」だと言っていいし、それ以降の学校の成績は全くダメだったのだが、
この神戸一中時代の成績が「そんなにアタマは悪くない」という自信に、
一生繋がって今に至っているのである。
★ 人生「運」でいろいろと左右されるのだが、
そういう意味では、私は抜群に「いい運命」に恵まれていたと思ている。
それはどんなことが続いたのかというと、
● 神戸一中に行っていたのだが3年の時に学区制で明石高校転校
● 明石高校に変わったので野球一筋、甲子園にも出場できた
● 高校時代に父が病気になりそのまま就職のはずだったが、
● 高校3年の1月2日に父が亡くなって、急遽大学進学に変更
● 父は私を大学にやるために正月に死んだのかなと思ったりする
● 受験勉強など全くなしに16.5倍の競争率だった神戸商大に入学
● 野球一筋の大学生活、野球部の部長に聞いたら「君は県会議長のコネ」だったとか
● 伯父が頼んだのだと思うがそんなことが通用する時代だった
● その伯父も私の大学時代に亡くなったのだが
● その葬儀に来られた砂野仁さんが川崎航空機でよければと言って頂いて
● 川崎航空機に入社したのだが
● 新しい事業の単車事業に従事し、広告やレースなどを経験することが出来たし、オモシロイ現役生活だった
● 家内と巡り合えたのもラッキーだったと思う
● 突然「くも膜下」になって死にかけたが、その場所が警察本部だったので
● 最高の脳外科専門病院に入院、手術もせずに1か月で退院、
● 70歳からは健康に留意し、毎日トレーニングを始めた。
● 定年後から、娘婿にパソコンを買わされたが、これで人生が変わった
● そして現在の生活パターンに繋がっている。
★ もう一度生まれ変わっても「このままの人生でいい」と思うほど満足している。
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時にはすでに亡くなっていて、
知らないのだが、誰もが立派だったという。
これは祖父の家族で伯父も父もまだ早稲田の学生時代だが、
私はこの祖父の別荘だった場所で生まれている。
これはまだ戦時中の写真で、場所は錦江ホテルの庭なのだが、
このホテルが川崎航空機の軍の人たちの宿舎に接収されて、
当時の総務部長砂野仁さんと伯父は繋がって戦後も親交が続いたのである。
砂野さんはその後、川崎航空機・川崎重工業の社長もされるのだが、
私が川崎航空機に入れたのは砂野仁さんのお陰なのである。
神戸一中への入学を勧めてくれたのも砂野さんだったようである。
伯父は当時は南鮮合同電力のオーナー副社長の傍ら、
明石では錦江ホテルの経営などにも当たっていて、
当時は私は小学校の低学年の時代だが、伯父には可愛がって貰って育った。
毎年、夏・冬には明石に里帰りして、
夏などこのホテルから海に泳ぎに行っていたのである。
★大学の成績は悪かったのに、川崎航空機に入れたのは、
間違いなく「砂野仁さんのコネだった」からで
「砂野さんの顔をつぶしてはいけない」と思って、
頑張った一面は有ったのである。
人の人生いろいろだが、
「私の人生」に色濃く影響のあった人
それは父と伯父と砂野仁さんだったのかなと思っている。