現役時代、初めてのことばかり その1 IBM
★ 私の現役生活は川崎重工の二輪部門が殆どだったのだが、入社して初めての仕事は財産課での償却計算だった。
当時の川崎航空機は戦後再スタートばかりで、まだ大変な時代で財産物件は通常1万円からなのだが、JET部門は新規事業と言うことで300円以上の物件を財産物件にしていたものだから、工具器具備品を担当した私は、机や椅子、スダレなど大変な数の財産物件の償却計算をしなければいけなかったのである。
そんな償却計算をタイガー計算機を使ってやっていたのである。

高価な機械でも、机や椅子でも計算作業は同じことだから、件数が多いほうが大変なのである。
そんなことで入社2年目にこれを『機械化』出来ないかと検討を始めたのである。
当時の川崎航空機は米軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていて、米軍関係者が駐在していてIBM室があったのである。
昭和33年当時は日本にはまだIBMは一般化していなかった時代なのだが、それがあったのである。
日本にIBMが一般化したのは昭和40年代だから、ほぼ10年も前のことなのだが、そんな時代に財産の償却計算のIBM化など世の中でも初めてのことである。
そんな大それたことを、入社2年目の私はやり始めたのだが、今思い返すとよくやったものだと思う。
まさに初めてのことだから、誰も教えてくれる先輩などはいなかったのだが、IBM室の係の方と一緒に『その仕組み』を創り上げて行ったのである。
IBM と言ってもまだパンチカードシステムの時代で、そのカードの桁数は100桁ほどである。その100桁の中に償却計算の必要項目を収める必要があるのだが、一番大変だったのは、財産物件の『コード化』で機械それぞれの名前や、机や椅子などすべてを4ケタほどのコードの中に入れるためにいろいろとやったのだが、こんなことは当時の職場では誰も経験のない『全く新しい仕事』だったのである。

そんな世の中でも『初めての仕事=財産物件の償却計算』を約2年間かかって、やり遂げたのである。
この仕事は単に明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も同じシステムに創り上げたのだが、新入社員ながら本社や岐阜工場などの人達をリードしていたのである。
こんなことを新入社員の2年目からやったりしたので、仕事のことなど先輩から指示されることなど全くなかったのである。
この償却計算のIBM化が完成したら、財産課で償却計算をしていた人たちが不要になり、大幅な減員になったのだが、私自身も当時初めて出来た『単車営業課』に転籍することになって、それ以降は現役を卒業するまで『二輪事業一筋』だったのだが、これがまた会社にとっても全くの新事業で『初めてのことばかり』が延々と続くのである。
そんなこともあって『私の現役時代』は、一言でいえば『初めてのことばかり』を約40年間やり続けたと言ってもいいのである。
そんなことだったので『私の現役生活』はホントに楽しかった40年間だと言えると思うのである。































































































































