rfuruya

2023年12月4日

「KX50周年を祝う有志の会」

投稿者 : rfuruya

2023-12-03 06:14:18 | カワサキワールド

★『KX50周年を祝う有志の会』に行ってきました。

 写真いっぱい撮ってきたのでご紹介します。

 その雰囲気で、どんな会だったのか、ご想像下さい。

 

 往年の名ライダー塚本昭一・多田喜代一・高橋芳延さん。

 

 KXの産みの親、百合草三佐雄さん

 まだまだ、お元気で何よりです。

 乾杯の音頭を!

  吉村太一ちゃんも来てくれました。

 

 お二人とは同じテーブでした。

 種子島径さんも、旧いカワサキの仲間の井上一美さんも同じテーブルでした。

  東京からはるばる来られた西郷善治さんと松島裕さん

 この会の主宰者かな?

 私を誘って頂いた、大津信さん

 これはTeam Green のメンバーだったかな、

 

 御大の平井稔男さんは写真で登場。

 

 壇上に上がった、ライダーたち。

 伊吹清孝さんも 

 

 森田優治さんも

 司会の腰山峰子さん・川崎由美子さん・松田真弥さんもおられたのに

 写真を撮るのを忘れてしまった。

 残念!

 ほんとに楽しかった『KX50周年を祝う有志の会」でした。

2023年11月29日

車の運転と私の人生

投稿者 : rfuruya

2023-11-22 07:00:28 | 自分史

★ 昭和32年入社だから1957年なのだが、

 1999年まで務めたので、実質42年間の現役生活だったのである。

 

 二輪事業は地方の販売店まで訪問する機会が多いので、

 その業務には車の運転が必須なのである。

 この二輪を担当することになって運転免許も取ったのだが、

 当時はまだ免許を持ってる人は少ない時代だった。

 

 最初は国内市場だけだったのに、アメリカに進出し、ヨーロッパにも手を広げ、

 さらには東南アジアや開発途上国市場のCKD事業にも関係したので、

 世界各国の道を知っているということになっていったのである。

 

★ そんな二輪車担当を卒業して、最後の2年間は北海道札幌で、

 『北海道川重建機』という優良会社の経営を任された2年間だった。

 その社名から川重の子会社のように思えるのだが、そうではなくて

 地元資本の会社なのだが川重の建機車両を主として扱っていたので、このような社名になっていたのである。

 

 この北海道川重建機は道内に10以上の支店があり、

 こんな支店網だったのである。

 

 そんな支店訪問も、移動手段は二輪時代の慣習で、

 与えて貰った4駆のクラウンですべて自分で運転していたので、

 北海道の道は殆ど走ったような気がする。

 

 雪道も走ったのだが、4駆のクラウンは素晴らしくて、

 若いころ東北の雪道を走った時代からは、

 考えられないほどの安定感だったのである。

 

東北6県4年間担当したから、

 東北の道は、大げさに言えばすべて知っていると言ってもいいほどだが、

 当時の道は峠は殆どすべて未舗装の砂利道で、むしろ雪道になった方がスムースに走れたようなところもあったのである。

 

 

 

 東北の後は、近畿2府4県の担当で、中部日本も東京も担当したし、

 九州は直入にサーキットを創るときにいろいろ走り廻ったので、

 結構詳しいのである。

 ひょっとしたら運送業のトラックの運転手より詳しいかも知れないのである。

 

★日本ほどは詳しくないのだが、世界の道も結構走っている

 国内を10年間担当して出向から戻ったら、

 カワサキの初めてのCKD 市場の担当となり、

 タイ東南アジアなどは、何回も長期間行ってるので、走行距離も結構長いのである。

 ずっと国際免許を持っていて、どこに行っても空港でレンタカーを借りて走り回っていたのである。

 オーストラリアも海岸線の長距離を車で移動したし、

 何度か出張してその内陸も走っていて、結構詳しいと言えるだろう。

 その後のヨーロッパ市場も、距離的には各国間をレンタカーで行き来出来たし、

 スペインの海岸線の観光地もジェットスキーの調査で走ったことがある。

 

 こんな社用での車の走行とは別に、

 プライベートで家内とのオーストラリアやヨーロッパ旅行でも

 レンタカーで好きな道を走り回ったりしたのである。

 元来、『車の運転』が好きなのだと思う。

 アメリカも現役時代は空港からレンタカーだったし、

 現在は娘婿一家がアーヴァインにいるので、

 これは乗せて貰っているのだが、結構な距離を走っているのである。

 

★ これらの国々を出張旅費を頂いて行けたので、

 ほんとに『いい現役生活』だったと思う。

 末端のユーザー販売店はみんなバイクが好きな方たちで、

 お客様と言っても、ほかの業種の『お客様』のようなところは全くなく、

 逆にお客様から『メーカーの人』ということで特別の目で見て頂いたようなところもあった。

一般のサラリーマンの方のような堅苦しい会社生活は全くなくて、

 ずっと好きなことを、好きなように出来た自由業のような現役生活だったのである

★そんなことで「私の車の運転」は現役時代から今も、

 ずっと毎日続いているのだが、

 お陰様で、無事故無違反のゴールド免許が続いているし、

 運転は好きだし、結構自信もあって、90歳の今も毎日車に乗っている。

 果たして何歳まで運転できるのか? 

 いまのところまだまだ大丈夫だと思っているのだが、

 若し免許を返納するような時になったら、

 私の人生も終わりかなと思ったりするのである。

2023年11月23日

大學の野球部のOB会に行ってきた

投稿者 : rfuruya

2023-11-20 03:50:43 | 発想$感想

大学の野球部のOB会に行ってきた。

 世の中にOB会なるものはいろいろあると思うが、

 この兵庫県立大学(旧神戸商大)のOB会は秀逸だと言っていい。

 こんなスケジュールで進行する。

 

 朝10時半にOBと現役の野球試合に始まって、

 硬球の本格的な試合には流石に出場は出来ないが、

 お楽しみイベントのベース一周タイムトライには

 90歳ながら参加してベース1周30秒で走り切った。

 110メートルはあると思うが、走りきれたので大満足である。

  

 高齢者のOBも参加できるソフトボール大会があるので

 これには1番セカンドで出場した。

  

 セカンドごろも1本だが飛んできたが、アウトに出来てよかった。

 被っている帽子はアメリカのエンゼルス球場で購入したものである。

 

 

★ 3時半からは所謂、OB総会である。

 これは型通りのOB会でOB会会長挨拶に始まって型通りの会計報告などが行われ、

 その後は懇親会がスタートするのだが、

 最高年齢のOBとして乾杯の音頭と

   

 ご挨拶をさせて頂いた。

 このOB会の花形は遠方や高齢で出席できないOBたちから寄せられた品々の

 チャリテイーオークションである。

 ホテルの宿泊券や酒などいろいろあってそれを競り落とすのだが、

 その金額合計が25万円にもなって、

 これは現役諸君の部費の足しに寄付されるのである。

 当日出席したOBだけでなく、こんな形での現役応援が出来る仕組みが秀逸である。

  

 そんなことで昨日はほぼ1日運動と総会で終わったのだが、

 OB諸君から私は結構目標にされていて、

 そう言う意味でも今後も参加できるように頑張りたいと思うのである。

★大学のキャンパスは、かっては垂水の海の近くから商大坂を登ったところにあったのだが、

 いつ頃だったか、大規模開発された『学園都市』に移動して、

 いまはいろんな大学が存在する文字どり学園都市の中にある。

  

 結構な距離、北に移動したので、

 三木市からは近くなって、車で家から20分の距離なので、

 参加しやすくなったのである。

 来年も参加できればいいなと思っている。

 

 

2023年11月21日

私の住んだ町いろいろ 朝鮮京城

投稿者 : rfuruya

2023-11-15 06:04:25 | 発想$感想

★私は兵庫県明石で生まれたが、直ぐ朝鮮に渡ったようで、

 人生で初めての記憶は朝鮮の太田市の川の中なのだが、

 そこではそんな川の中で魚をとってたという記憶しかない。

 小学校に入るちょっと前からは朝鮮京城、今のソウルに移った。

 まだ朝鮮が日本だった頃で、日本人もいっぱいいたし、

 小学校も中学校も日本人ばかりだったし、日本語ばかりだったから、

 朝鮮にいたが朝鮮語は全く解っていない。

 覚える必要が無くて、朝鮮の人たちも日本語を話していた。

中学1年生の夏・8月が終戦だから、京城のことはよく覚えている。

 その年の12月に日本に引き揚げてきたのだが、

 ソウルオリンピックの時に韓国に行く機会があって

 小学校やら元住んでいた家の写真など撮ってきた。

 これが通っていた桜が丘国民学校で、

 当時の内地の小学校は木造だったが、

 立派な鉄筋コンクリートで、暖房にはスチームが設置されていた。

 

 家は塀が変わっていたが、そのまま残っていたので懐かしく、

 門の前で写真を撮ってきた。

  

 城東区新堂町桜が丘という住所だった。

 なぜソウルに行ったのかというと

 ソウルオリンピックの時に開会式の当日漢江でジェットスキーのデモンストレーションをソウルオリンピック委員会から正式に依頼されて、

 その団長として行ったときにかっての住所まで行ってきたのである。

 

 

 戦前のソウルの町も結構ちゃんと覚えていて、

 タクシーで行ったのだが、道も間違えることなくちゃんと行けたのである。

★いまのソウルは戦前の2倍以上に大きくなっている。

 かっての京城時代は大体赤い線の中ぐらいが街だったと思う。

 いまは漢江の南側も大都会になっているのだが、

 戦前は漢江の南は野原だったし北側も山が多くて家などは建っていなかったが、

 そこがみんな住宅街になっていてびっくりした。

 かって住んでいたところと小学校である。

 奨忠壇公園の池に冬はスケートに行ってたので、

 そこから辿ったら直ぐ家は解ったのである。

 かっての朝鮮総督府

 

  京城駅

  

 南大門

  

  

  そのまま残っていた。

  戦前の市電は当時の神戸の市電より綺麗だったし、

  三越デパートもあって結構な大都会だった。

  戦争がひどくなる前の小学生の4年生ごろまでは

  夏冬の休みには明石に帰省していたので、当時の日本も神戸の町なども知っているのだが、

  内地の家はなぜこんなに小さいのかと思ったのを覚えている。

  当時の京城は日本人が開拓して日本人街を造ったのだと思うが、

  住んでいた桜が丘の家の一帯は東洋拓殖の社宅もあったが、

  社宅と言っても300坪ぐらいはあったし、

  周りの家もみんな300~500坪の土地の上に建っていた。

  高級住宅地ではなく、中級住宅地だったと思うが、高級住宅地はもっと立派な家も建っていたように思う。

  戦時中も空襲もなかったし、食糧事情もよくて、その点は内地と違って、平時と全く変わらない生活を送ってきたので、

  戦争中の苦労などは全くなくて、小学生の5年生の頃から、

  兵隊さんによる軍事訓練を受けたりしていた。

  中学校の夏休み中の宿題が『軍人勅諭の暗唱』で、

 

「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき・・」

 

 これはまだ出だしの部分で延々と続くのだが、

 ぼちぼち覚えねばと思っていたところに終戦だったので、

 全く覚えていないのである。

★そんなこともあったが、終戦でそんな家もすべてそのままに日本に引き揚げてきたのだが、

  そんな家や土地をどのようにして分配したのかな?

  と今でも思うのである。

  引き上げ時は、一人1000円の現金持てる荷物だけだったから、

  みんなそのまま現地に置いてきたのである。

  私は中学生だったので大した苦労もなかったのだが、

  両親は生活が様変わりでほんとに大変だったと思う。

  

  そんなことなので、韓国は故郷のようなところがあって、

  韓国がほかの国とが試合などすると、韓国を応援するようになっている。

  いまは日韓関係がいいようなのでほっとしているのである。

 

コメント

2023年11月18日

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

投稿者 : rfuruya

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、

 あまりにも大きな台数目標であったために、

 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。

 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、

 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、

 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、

 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。

 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、

 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、

 カワサキの単車事業の歴史としては、

 この年から数える方が妥当かも知れない。

  

 

 

 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から

 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、

 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、

 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。

★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、

 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、

 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて

 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、

 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、

 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  

 

 

  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、

  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて

  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、

  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、

  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 

 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は

 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、

 そのレース職場は当時は製造部所属で、

 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から

 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、

 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、

 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、

 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、

 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして

 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。

★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、

  私のマーケット分野の集大成のような期間で

  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、

  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、

  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。

  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。

 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、

 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として

 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。

2023年11月17日

門野哲也  優勝おめでとう!

投稿者 : rfuruya

2023-10-31 05:35:40 | スポーツ

★ 海の向こうのアメリカの話だが、

  孫の末弟・門野哲也は日本人ながら、

  大学のサッカーチームのキャプテンで頑張っている。

  今年の大学リーグの優勝を決めたようだ。

  

  

 それも8連勝など圧倒的な勝利で、

 無得点に抑えた活躍で

 Player of the Week  に

  

 2週連続して選ばれている。

 応援して頂いた皆さんと喜びの1枚。

 シャッターを切ったのはお父さんかな?

 

   

  お母さん(娘)も大喜びである。

  背は190cmもあるから、キーパーになったのか?

  キーパーになったから背が伸びたのか?

    

★ 有名人がが身近にいた、子どもの頃からの環境もよかったのだと思う。

  ベッカムとも一緒に写真に納まっているし、

  

  

  

 アメリカ代表監督クリンスマンさんとは非常に近くて、

 同じクラブの次男のチームのキーパークリンスマンさんの息子さんだったりした。

 

 

 

  そんなアメリカのいい環境で育ったので、

  こんな選手になれたのだろう。

  これは中学3年生の頃に日本に遊びに来てた時、

  ヴィッセル神戸の練習に参加させて貰った時の写真だが、

  石末コーチと背は変わらないほど大きかった。

  

 

  次男の門野真也はすでにアメリカのプロ選手なのだが、

   

 

  哲也も来年大学卒業したら、多分プロを目指のだろう。

  

 

 二人の孫がアメリカのプロ選手になったら、

 一度アメリカまで観に行こうかなと思ったりしている。

 兎に角、優勝おめでとう!

2023年10月30日

カワサキの工場見学と青木隆さん  

投稿者 : rfuruya

2023-10-27 07:06:06 | カワサキワールド

★10月25日に行われたカワサキの工場見学だが、

 遠く豊岡からカワサキのバイクで参加された青木隆さんが、

 当日のいい写真を送っていただいた。

 青木隆さんいつものことだが、

 私などと違って写真に小さな気配りがあっていい。

 私も一ぱい写っていて、いつの間に撮ったのだろうと思うのである。

 これは工場見学後、カワサキの昔を私が話した時の写真である。

 カワサキの二輪事業のスタート時を語れる方も少なくなってしまった。

 

 この工場見学に事務局が準備された資料だが、

 つい先日亡くなったばかりの山本隆のことが語られている。

 実は、青木隆さんと繋がることになったのは、山本隆さんのご紹介なのである。

 

 これは青木隆さんのブログからだが、このように語っておられる。

 ついこの間だったような気もするが2014年のことだったから、

 もう10年近いお付き合いなのである。

  

 

★そんな青木隆さんだが、

 今回の工場見学でも私の写真をいっぱい撮って送って下さった。 

 これは昼の会食後だが、

 明石大橋が望める江井ヶ島の海岸に立ち寄った時の私の後ろ姿である。

 右に写っているのは淡路島である。

 私は明石の生まれ、明石の育ちだから、明石海峡にはいろんな想い出がある。

 明石海峡大橋を眺めながら、そんな昔を想っていた。

  

 これは昼食後、江井ヶ島の海岸に出発する直前、

 こんなカワサキのZ1100で参加されていた。

  

  

 

そんな青木隆さんとカワサキの展示場でのツーショット

 

 川崎神社は今回帰りがけに、私がご案内したのだが、

 そんな川崎神社での何枚かの写真を送って下さった。

 いつの間に撮られたのだろう? 私は全く気付かなかった。

 

  この川崎神社は1990年代に大きく改装されたのだが、

 

 それをおやりになったのは、

 大庭社長ではなくて当時の高橋鐵郎事業本部長なのだが、

 こんな風に大庭さんのお名前が残っているのは

 高橋さんのお気遣いなのだろう。

 大庭浩さんは社長におなりになる前1986年ごろは二輪事業本部長をおやりになっていた。

 その時の副本部長高橋鐵郎さんで、企画室長が私だったのだが、

 この川崎神社はもっと後、1990年代高橋鐵郎さんが事業本部長時代に大改装されたのである。

  そんな川崎神社の参拝を最後に、

  今回のカワサキ工場見学は終わったのである。

  

  

  

  私の最後のカワサキ工場訪問になるかも知れません。

  青木隆さん、写真いろいろ有難うございました。

  この工場見学に参加された皆さん、有難うございました。

2023年10月27日

川重明石工場会

投稿者 : rfuruya

2023-10-25 18:39:32 | カワサキワールド

★ 川重明石工場の見学会神戸ベンチャー研究会主催で行われた。

 私は昭和32年(1957)に当時の川崎航空機工業の明石工場に入社して、

 1999年の退職時には3社合併があって川崎重工業になっていたが、

 現役時代の約40年の舞台となった懐かしい工場なのである。

 当時に比べると数段綺麗に立派に伸長した川崎重工業だが、

 いま二輪事業は分社されて『カワサキモータース』として存在しているのである。

 従って正規に言うと『カワサキモータース』明石工場見学会だったのかも知れない。

  総勢14名での工場見学会だったのである。

  ちょっと少なくて寂しいかなとも思ったのだが、

  実際に工場見学してみるとちょうどいい人数だったなと思っている。

 

  

 こんな立派な会議室で、

 会社側からの丁寧な説明も聞いたし、

 

 私自身から、現役諸君もご存じない二輪事業スタートの頃の昔話もご披露したりしたのである。

 工場内は写真撮影はダメなので、

 こんなロビーの写真や、

  

  これは現在お勤めの方も、ご存じない方が多いのではと思うのだが、

 正門の横の奥にある川崎神社にお参りして戻ってきた。

  

  

 これは今吉田純一さんが、全国に「オートバイ神社」のネットワークを創られつつあるのだが、

 出来ればこのカワサキ神社もその輪の中に入らないかなと思ったりしている。

 この神社は高橋鐵郎本部長時代にこんなに立派に造られたものなのである。

 立地が国道2号線の直ぐ横だから、ちょっと工夫すると工場に入らなくても

 誰でもお参りできる神社になる立地なのである。

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2023年10月13日

カワサキ単車の昔話  24     大庭浩本部長

投稿者 : rfuruya

2023-10-06 06:18:28 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキが二輪事業をスタートさせた時から現役引退の時まで

 カワサキの二輪事業とともに歩いた人生だったと言っていい。

 

 そんなカワサキの二輪事業にも事業撤退をしなければならないと

 その当時のTOPが思ったほどの危機的な時代があったのである。

 当時の川崎重工の副社長山田熙明さんから

 1982年7月1日の朝、突然自宅に電話があって

 『本社に来るように』という指示なのである。

 何事かと思ったら、当時毎年100億円もの赤字が続いていた

 アメリカのKMCの赤字が止まると思うか?

 というのがご質問なのである。

 『そんなのは直ぐ止まります』と答えたら

 『それならお前が企画に戻ってやれ』ということになったのである。

 これが、そのあと直ぐ頂いた山田熙明さんからの手紙

 9月1日付で企画に戻すから、それまでは他言せぬようにと

 書かれている。

  

  

★ そんなことで私は10月1日から事業本部の企画に戻ることになったのだが、

 山田さんにお願いした条件が一つあって、

 「高橋鐵郎さんをアメリカの社長から戻して欲しい

 とお願いしたのである。

 世界の販社の販売計画や黒字化は、

 本部で全体を考えたバランスの取れた計画を組めば、即達成されるのは間違いないのだが、

 そんな指示を世界の全軍に指揮するには新米部長の私には荷が重くて、 

 高橋鐵郎さんのお力をお借りしたかったのである。

 この時期の単車事業部の赤字は川崎重工にとっても大問題で、

 『単車再建』は当時の川重の第一優先課題だったのでもある。

 そんなことで翌年春ごろからは『再建屋』と言われていた大庭浩常務を本部長に送り込むと言われたりしていた。

 それが7月1日に実現するのだが、

 大庭さんにとっても初めての経験だから、若し大庭さんが最初からおやりになるとすると大変だったと思うのだが、

 幸いにして大庭さんが来られた7月1日には既に新事業計画も完成していて、それに従って順調に推移していた時期なのである。

★ 人には『ツキ』があると思うが

 大庭浩さんはそんないい「ツキや運」を持っておられたと思う。

 現在の神戸にある立派な川重本社は大庭浩社長の時に建てられたもので、ちょうどそんな時期の社長だったし、

 1996年の川崎重工創立100周年時の社長で、

 その年の10月14日には英国のサッチャー元首相の記念講演会が実施されるのだが、

  

 サッチャー首相との結び付は、大庭さんが単車事業本部長時代に

 ヨーロッパ出張時に始まっているのである。

 

       

大庭浩さんは、川重の中でも『怖い・うるさい』などのイメージが強いのだが、

 単車のメンバーはみんな上に強くて、

 大庭さんに対しても自らの意見をはっきりという人ばかりなのである。

そんな単車事業部の雰囲気を大庭さんは大いに気に入って頂いて、

私の進言など一番聞いて頂いたのは『大庭浩』さんで、

私にとっては信頼して頂いた最高の上司だったのである。

大庭さんの単車事業本部長はそんなに長くはなかったが

結果的には『単車再建』を達成されて、川重副社長で本社に戻られたのである。

 それまでの川重の中における単車事業は造船などの受注産業の中での異色の事業だったのだが、

 大庭さんの社長時代に川重の中でも中枢の事業本部に位置付けられるようになったのである。

 そんな大庭さんの社長時代に川重の全役員を集めた席上で、

 『単車事業についての説明』を私にするように依頼があり、1時間ほどお話したのだが、

 非常に好評で『よく解かった』と多数の方からお褒めを頂いたのである。

★そんな大庭浩さんの単車本部長時代に大庭さんの番頭役を務めたのが私で、

絶大の信頼を頂いて特に目を掛けて頂いたのである。

 

 私の最後の職務は国内販社の担当だったが、

 それは大庭さんが打ち上げられた国内7万台販売というとてつもない目標達成なのである。

 ZEPHYRという商品にも恵まれて、

 高橋鐵郎さんとのコンビで、

 7万台目標が達成されたことは大満足なのである。

  

 

 

 この記録は多分今後も破られることはないのだろう。

★ところで、私の川崎重工での最後の職位は『技監』なのだが、

 これは文字通り技術屋さんの博士号などを取られた方や

 国からの来られる技術屋さんなどに与えられる取締役待遇の職位なのである。

 その『技監』という職位を事務屋ではじめて頂いたのが私で、 

 それは大庭浩社長自らのご指名だったのである。

 大庭さんは技術屋さんで何事もその根拠が必要なのだが、

 『お前はマーケッテング分野では博士号に値する』と言って頂いての『技監』だったので、大満足しているのである。

 

 大庭さんに一番づけづけとモノを言ったのは間違いなく私だと思う。

 そんな大好きな大庭浩さんだったのだが、早く逝ってしまわれたのである。

 

霧の中を歩いてきた

投稿者 : rfuruya

2023-10-05 06:00:00 | 発想$感想

★今朝はちょっと早く5時半ごろに公園に着いたのだが、

 まだ陽は上がっていなかったが、こんな感じで雲が出ていた。

 雲かなと思ったのだが、

 雲ではなくて霧だったようである。

 すぐ手前は霧などなかったので、こんな写真が撮れたのである。

 

 

 歩き始めた時は霧はなかったのだが、

 直ぐに周囲に霧が立ち込め始めた。

 

  本当に急にこうなったのだが、

 全く周囲が見えないような深い霧になった。

 こんな経験は初めてである。

 ごく近くは見えるのだが、橋の向こうは全く見えない深い霧である。

 やっと太陽が一瞬見えたのだが、

 

 またこんな感じになってしまった。

  約1時間半のスロージョッギングだったが、

  戻って来て最初の写真と同じ位置なのだが、

  霧で綺麗に見えていた丹青山全くその姿が見えないのである。

 

 こんな初めての経験の霧の中の朝だった。

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