2024-05-03 06:16:20 | カワサキ単車の昔話
★ 1965年に「W1を発表」とある。
当時の昭和40年を振り返ってみると、
私はまだ33歳、広告宣伝課でレースなども担当していた頃で、
W1のカタログなど創っていたが、直接の販売には関係なかった時代なのである。
このカタログは私の広告宣伝課長時代の作なのである。
その年には販社の名称がカワサキ自動車販売から『カワサキオートバイ販売』に変わって、そのカワ販に出向した年でもある。
そのころ丁度、アメリカ市場開拓がはじまって、
一緒にレースなどやってた田崎雅元さん(後川重社長)が、シカゴに事務所を創った時代なのだが、
W1はそのアメリカ市場に持ち込まれたのだが、高速道路の高速走行には不向きで、振動が激しくもう一つ評判がよろしくなかったという記憶があったりする。
ただ、国内市場では誠に評判がよくて、当時の国内市場では最大排気量車であったし、
警察の白バイは当時はホンダではなくて、圧倒的にカワサキだったのである。
そんなこともあって、各地の白バイの隊員さんとはいろいろと仲がよくて、
当時はやっと運転免許を取りだした時代だったのだが、
ちょっとしたスピード違反などは、頼めば取り消して貰える、そんな悠長な時代だったのである。
私が初めて運転免許証をとって、車の運転を始めたのもこの年なのである。
★ 1965年5月には山本隆のたっての希望で会社には内緒で、
鈴鹿のジュニアロードレースに出場したのだが、
当日は雨でタイムが落ちて、モトクロスライダーの山本隆が3位入賞と言う結果で、カワサキがロードレースの世界に本格的に進出することになったのである。
これがその時の写真で、広告宣伝課の川合寿一さんが現場に行ってたのだが、
『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が5月3日の休みの日に我が家に届いたのである。
ヤマは山本隆、シオは北陸から参加してくれた塩本なのである。
★ そんなことから、ロードレースライダーとして金谷秀夫とも契約を結ぶことになるのだが、
翌年の1966年のことだが、 富士スピードウエイが出来てその初めてのレースに金谷秀夫がW1で出場したことがある。
ずっと後の話だが、小関和夫さんのWの本を出される取材で、
「FISCOで、W1のレーサーに、金谷秀夫が乗って走ったレースがあるのだがご存じありませんか? 」というのである。
このレースは、私はFISCOの現場にいて、非常に印象に残ったレースなのである。
W1のロードレース出場はこの1回だけなのだが、
当時は500ccを超えるロードレーサーなどはどこにもなくて、このレースも350ccが相手だった。
まだFISCOに伝説となった 『須走り落とし』と言われた第一カーブがあったころで、直線コースは長かった。
レースはその直線部分では、Wが圧倒的なスピードで他を抜き去ってしまうのだが、
逆にカーブでは車体が揺れて、チェンジは右、ブレーキは左のマシンには、流石の金谷も手こずって抜かれてくるのだが、
直線の最後までにはまたトップを奪い返すと言うオモシロイ展開だったのである。
このレースでの『金谷のアタマの揺れ』を見て、
アメリカの高速道路での車体の揺れを想いだしたりした。
結局最後のゴール地点では、抜き返すには距離が短くて確か、2位か3位でのゴールインであったのだが、
小関さんに聞くとクラスが違うので『クラス優勝』扱いになっているのだとか。
残念ながら写真もないのだが、その時の印象は今でもよく覚えている。
懐かしいW1と金谷秀夫の話である。
まだ、カワサキはGPレーサーは開発時代で、
三橋実・安良岡健・金谷秀夫の3人がそのテストで鈴鹿を走ってた時代である。
彼らの契約条件に『テスト走行』などはなかったのだが、
頼めばやってくれる、そんないい時代だったのである。