rfuruya

2023年9月11日

カワサキ単車の昔話  17     山本隆のこと 1

投稿者 : rfuruya

2023-09-08 04:58:17 | カワサキ単車の昔話

★ 私がレースに関係したきっかけを作ってくれたのは実は山本隆なのである。

 なぜそんなことになったのかと言う経緯を『山本隆のこと』を書く第1弾としてお話してみたい。

 話は飛ぶが、日本で一番最初に本格的なロードレースが行われたのは、

 鈴鹿サーキットが出来た1962年11月なのだが、

 このレースの優勝者は250ccが三橋実・350ccが片山義美で、

 当時はいずれもヤマハの所属なのだが、

 後二人は三橋実がカワサキコンバット片山義美は神戸木の実クラブというレーシングチームを主宰したので、

 お二人ともカワサキとは密接な関係が出来たのである。

 その鈴鹿の第1回ロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行って、モーターレースの素晴らしさに感動して

 翌年6月兵庫県の青野ヶ原で行われたモトクロスに出場したのだが、

 初出場ながら1位から6位までを独占するという完全優勝で、

 これがカワサキの二輪事業を本格的にスタートさせ、

 カワサキもレースチームを創るきっかけになったのである。

 この5人が一番最初にカワサキが契約したライダーなのだが、

 三橋実・岡部能夫・梅津次郎カワサキコンバットで、

 山本隆・歳森康師神戸木の実クラブ所属だったのである。

  

★ 私はその頃、新しく出来た広告宣伝課の担当で、

 青野ヶ原モトクロスも、その後のレース関係も担当分野ではあったのだが、

 直接の担当者は青野ヶ原モトクロスのチームマネージャーをやった川合寿一さんが担当していて、

 彼にすべてを任していたのでレースのことなど全く知らなかったのである。

 ところが1965年2月に突然山本隆と歳森康師の二人から辞表が出て、

 BSと仮契約をしたというのである。

 それがどのくらい重大なのかもよく解らなかったが、

 川合さんは『これは大変なこと』だから『止めねばならない』と言うのである。

 どうすればいいのかと聞くと、

 神戸木の実クラブ の片山義美に会って、二人がBSに行くのを止めるように頼んで欲しいというので、

 私はレースのことなど全く解らず、神戸木の実片山義美も全く知らなかったのだが、

 言われるままに片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと頼んだのである。

 こんなことだから、私がレース関係者と話したのは片山義美が初めてだったのである。

 片山義美がどれくらいの有名人なのかも全く知らぬままにお会いしたのである。

   

   

    

★それは1965年2月13日のことだった。

 片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと単純に頼んだのだが、

 片山義美カワサキのそれまでのレース運営についての問題点をいろいろと鋭く指摘して、

 こんなことを直さない限り、ライダーたちはカワサキに留まらないだろうと言うのである。

 言われてみると『尤もなこと』ばかりなのである。

 そんなことで『今後は私が直接担当して、ご指摘の点を直しましょう』と言ったら、

 それなら『山本・歳森』を呼んで直接言ってあげると言うことになって、

 2月20日に片山義美・兵庫メグロの西海義治 社長 山本隆・歳森康師と私の5人で会って、

 片山から「カワサキに残れ」と言う一言でこの問題は解決したのである。

★初めてレース界の方と話をしたのは片山義美さんなのだが、

 そんなこともあってその後片山さんとは何度もいろんなところでお会いをしたり、

彼の現役引退パーテーでも一番最初にご挨拶をしたのは

スズキでもマツダでもなくカワサキの私だったのである。

 こんな神戸木の実クラブの集まりにも、

 私を招待して頂いたりしたのである。

  

 

 カワサキのレースのOB会にも片山義美さんは来てくれて、

 真ん中に座っての記念撮影なのである。

 そんな片山義美を偲ぶ会に集まったメンバー、

 勿論、山本隆も星野一義もいる。

  ★そんなことから、私はその後レースの世界に関係することになったのだが、

 これは私にとっても『レース界に関係』したことが一生の財産となったのである。

 そういう意味では2月20日の会合が本当に大きかったのだが、

 この席には兵庫メグロの西海義治社長も同席されたのである。

 カワサキの製造部に鈴鹿のロードレース観戦のバスを仕立てたのも

 青野ヶ原のモトクロスを主催されたのも実は西海さんで、

 カワサキにレースをスタートさせた張本人は西海さんなのである。

 西海さんは元プロのオートレースのライダーで、

 この日西海さんをお呼びしたのは私ではなくて、

 片山義美さんがレース界の先輩として呼ばれたのだと思う。

   

 これはずっと後、兵庫県で開催された全日本モトクロスでの

 本田宗一郎さんと西海義治さんとのツーショットなのだが、

 本田宗一郎が「鈴鹿サーキット」をあの時造らなかったら、

 あのレースをカワサキの製造部が観戦しなかったら

 カワサキの二輪事業は今のようにはなっていなかったと思う。

 そう言う意味でカワサキの二輪事業にとってはこのお二人は恩人と言えると思う。

 カワサキのその後のレースには私も直接関わることになるのだが、

 そのきっかけを創ってくれたのは山本隆なのである。

  

  

   

山本隆のこと」の第1回はこんなことで、山本隆のことは少なかったが、

 これから何回かに分けて書いてみたい。

 私は今でも山本隆とは親交があるのでもう70年近いお付き合いなのである。

 因みに山本隆・星野一義・片山義美などと敬称抜きにしているのは有名人は通常敬称抜きで語られるもので、

 そう言う意味では山本隆・星野一義は有名人なのである。

2023年8月29日

神戸ベンチャー会に行ってきた

投稿者 : rfuruya

2023-08-27 06:14:16 | NPO The Good Times

★ 神戸ベンチャー研究会8月例会 は、「魅力ある伝統を生かすことにチャレンジ」 をテーマに

 『NPO法人・二輪文化を伝える会』の理事長の松島裕さんが発表者の一人だったので、

 KAWASAKI Z1 FANNCLUBの登山さんたちと参加してきた。

 
  

 1時間半にわたる松島裕さんの話は、なかなか奥行きの深い日本の二輪文に関する話であった。

 松島裕さんは1900年後半に鈴鹿8耐を走った二輪ライダーなのだが、

 

  

  

 松島さんとはNPO The Good Times のホームページ制作でお世話になって以来のお付き合いで、

 その間ずっと続けてきた『二輪文化を伝える会』を今回、NPO法人化することに挑戦、

 めでたくNPO 法人・二輪文化を伝える会がこの8月に誕生し、その理事長を務められているのだが、

 来年4月には10年ほど前に私が立ち上げた

 NPO 法人・The Good Times の理事長も引き受けてくれることになっている。

  そんなこともあって話の中には

  NPO The Good Times との出会いや

  当時の私のことなども語られたのだが、

 

 

 話しの中心は『二輪文化とは』という

 昨今は二輪メーカーもあまり語らない

 高次元な話だったのである。

 そのスローガンは

 バイクに乗らなくても『バイクが好き』という人を増やしたい。

 と言うもので、なかなかいいスローガンだと共感したのである。

 物事、スローガンとかコンセプトは、

 本来非常に大事なものなのだが、

 単にスローガンだけで終わったしまうことも多いのだが、

 松島さんの場合は

 『二輪文化を伝える会』を立ち上げて以来10年、

 ひたすら二輪の歴史を追い続けてその蓄えられた知識の実績は、

 メーカー以上と言ってもいい。

 ごく最近もこんな会合を開催されているし、

 日本の二輪文化の創造に貢献した人物名も列記されていて、

 ライダーたちが殆どなのだが、

 本田宗一郎・藤澤武夫・酒井文人などと並んで私の名前なども載っていて、

 恐縮しているのだが、

 私自身は現役時代から二輪文化の創造には結構なウエイトをもって臨んでいたことも事実ではある。

 

  

★ そんな高次元の話をされた松島裕さんだが、

 今後ますますの活躍を期待したいものである。

 私が歳をとり過ぎているのだが

 神戸ベンチャー会の窪田代表松島理事長もお歳を聞けば、

 私の子どもたちと同年代なのである。

 自分のこどもたちはいつまで経っても『子供』だが、

 よそのお子さんは立派に育つものである。

  

  兎に角、松島さんはいろんな歴史を調べ上げて

  その知識の豊富さに驚かされるのだが、

  話の中にはこんな『寄り道』もあって

  夏の全国大会の会場は

  第1回・第2回が豊中球場

  第3回から第9回までは鳴尾球場

  第10回からが甲子園球場なのだが、

  戦後再開された1946年は、甲子園球場はまだ進駐軍に接収されていて、

  西宮球場で開催されたのだが、

  この大会は平古場を有した浪商が優勝したのである。

  1946年は私は中学1年生だったが、平古場も浪商もよく覚えている。

  そんな記録を正確にご存じなのは驚きなのである。

  

  

  

★ご縁があって、

 神戸ベンチャー会二輪文化を伝える会さらには

 NPO The Good Timesも繋がったので、

 NPO The Good Timesの基本コンセプト

 『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう

 の通りの活動になって欲しいと思っている。

 昨日は間違いなく『いい時』が過ごせた1日だった。

2023年8月21日

カワサキ単車の昔話  13     増販と資金繰り

投稿者 : rfuruya

2023-08-21 05:12:36 | 発想$感想

★二輪業界の増販競争が一番激しかったのは、

 昭和50年代のホンダとヤマハの増販競争・HY戦争と言われた時代かなと思うが、

 50ccのモペットの台数増販競争は熾烈を極めたものだった。

 これはホンダのロードパルの発売あたりからスタートし、

 それに対抗してヤマハも頑張ったので、

 市場は乱売合戦がすさまじかったのを想い出す。

  

  これは日本の50㏄市場の乱売合戦だったので、

 50㏄のモペットを持たないカワサキは横から眺めていたのだが、

 それがアメリカ市場にまで飛び火して、大変なことになったのである。

★1980年頃だったと思うが、アメリカでも安売り競争が始まって、

 KMCは年間100億円の赤字が2年も続き、

 銀行借り入れ金が300億円にもなって

 当時のアメリカの金利が18%の時代だったから、

 その金利だけでも50億円近くになり大変なことになったのである。

 当時の川重本社は造船が絶頂期だったから、事業部の赤字ならそんなに大したことではなかったのだが、

 子会社のKMC100億円もの赤字を出すと、連結決算で川重本体の利益が相殺されてしまうので、

 大変なことになり、川重財務本部が乗り出して、300億円もの単位での対策を行った時期がある。

 これは資金対策の問題なので、当時の事業部におられた技術屋さんなどは、

 全く知らない事実でこれを知ってる人は限られた極く少数の人だけなのである。

 事業本部の赤字ではなく、子会社KMCの赤字だから、販売会社の赤字をどうしたら止められるのかは、

 販売会社経営のノウハウなので、当時は販社の経営などやった経験者は川重籍の人達にはいなくて、大変だったのである。

★この事態を総責任者として対応されていたのは、当時の川重の副社長の山田熙明さんで、

 山田さんから突然呼び出されて「このKMCの期間損益の赤字は止まると思うかか?」と仰るので、

 「直ぐ止まると思います」と答えたら、「それならお前がやれ」と販社から企画に呼び戻されたのである。

 販売と言うのは規模の大小はあるが、小さな小売店から大商店まで、

 ちゃんとやると「赤字などにはなったりはしない」のである。

 それが赤字になってしまうのは、実力以上に売ろうとして、

 大量に仕入れたりするので、その資金負担などで赤字になってしまうのである。

 事業部のほうも沢山生産し沢山販社に売ると事業部の利益は上がるので、

 資金繰りとか営業外損益の理解のない人たちは、

 つい『大量生産・大量販売』の方向に走ってしまって、

 それが販社の実力以上の台数だと、販社の破綻に繋がってしまうのである。

★「沢山売ると沢山儲かる」それはそうなのだが、

 それが実力内かどうかが問題なのである。

 カワサキの単車の創成期には、全国には自前の代理店があって、

 代理店が販売店に卸していたのだが、

 その時代の代理店は、実力以上に売り過ぎて、資金が回らなくなり、

 メーカーの資金援助を受けて、結局はみんなメーカーに取られてしまったのが、日本の販売網の歴史なのである。 

 当時、私は若かったが東北6県の代理店担当だったから、

 メーカーの増販要請に応じたメーカーに協力的な代理店から順番に、資金が破綻していったのを目の前で見ていたのだが、

 これはカワサキだけではなくて、ホンダ・ヤマハ・スズキも同様で、

 日本の二輪の販売網は今のようなメーカー直轄の販売網になったのである。

★ カワサキの場合は、特に当時は、販売が解る人など殆どいないというか、

 第1線の販売はメイハツ・メグロの出身者が担当していて、

 川重籍では極端に言うと『私だけ』と言ってもいいほど少なかったのである。

 カワサキの場合は他社に先駆けて『中大型スポーツ車』の

 250A1

  

  500マッハⅢ

  

 

  Z1 などスポーツ車が海外市場で好評で、

  

 

 

 在庫など溜まるよりも『数不足』の状態だったから

 当初は海外のどの市場も問題なく、カワサキの二輪事業は成長の一途を辿ったのである。

 

★ それが1980年代になって、

 初めて海外販社の「在庫過多」と言う初めての事態に直面して、

 営業外損益が大幅な赤字になり、

 その対応が解らずに、大変なことになってしまったのである。

 私は企画に戻って、世界の販社の経営再建にあったのだが、

 半年で、世界の全販社が黒字転換し健全経営に戻ったのである。

 これは何も私の力で戻ったのではなくて、

 当時川重財務本部が300億円もの対策資金を用意してくれたので、

 この資金を全販社の営業外損益対策=資金対策に充てて、

 実力通りの適正販売量に戻しただけのことなのだが、

 そんな具体的な対策が打てたのは、

 若いころに東北6県の代理店の資金対策を直接見て知っていたからなのである。

 要は、そんなに欲張って、実力以上の増販などしなければ、

 販売と言うか販売会社は常に儲かって黒字なのである。

 

2023年8月17日

8月の神戸ベンチャー研究会

投稿者 : rfuruya

2023-08-17 05:20:39 | NPO The Good Times

★ 神戸ベンチャー研究会は毎月1回、ベンチャー企業の方の発表をする機会を創っているのだが、

 この8月26日の土曜日にはその開催回数が269回になるという歴史を誇る由緒ある研究会なのである。

    

    

    http://kobeventure.jp/

今回の発表者のお一人は松島裕さんで、東京から来られての発表である。

松島裕さんとはもう10年以上のお付き合いで、

 現在のNPO 法人 The Good Times のホームページは実は松島裕さんの作なのである。

  

 そのホームページのバナーには、

 ●神戸ベンチャー研究会

 ●登山道夫さんが立ち上げられたKAWASAKI Z1 FAN CLUB

 ●松島裕さんが主宰されている「二輪文化を伝える会

https://2rin-tsutaeru.net/

  がそのTOPを飾っている。

 NPO The Good Times の初代理事長は私なのだが、

 現在はあの3年連続モトクロス全日本チャンピオンの山本隆さんが引き継いでくれている。

   

   

 実は来年4月からは松島裕さんが3代目の理事長を引き受けてくれることになっているのである。

 

松島裕さんのプロフィールは、神戸ベンチャー会のホームページで、

 このように紹介されている。

《プロフィール》
 松島 裕(まつしま ゆう) 1965年生まれ 18歳からオートバイロードレースを志し、怪我や資金不足に苦戦しつつも、1995〜2000年に鈴鹿8時間耐久レース(鈴鹿8耐)に出場。 

引退後は、ホームページ制作などウェブ関連の支援サービスを主業務として開業。現在に至ります。 

また、NPO法人The Good Times との出会いから、2012年より「二輪文化を伝える会」の活動を開始。

 日本のオートバイに関する歴史や文化について、一般社会のみならずバイクに関わる人でさえ歴史をあまり知らないことに驚愕し、二輪の歴史を調査・考察して、それを二輪文化としてインターネットを中心に伝える活動を続けています。

 活動12年目を迎えた今年、デジタルミュージアムを基本構想に、特定非営利活動法人(NPO法人)として認証され、新たなスタートを切りました。 

スローガンは「バイクに乗らなくてもバイクが好きな人を増やしたい

 ホントにその通りで

バイクに乗らなくてもバイクが好きな人を増やしたい」というスローガンがいいと思う。

 私自身がバイクも持っていないし、バイクにも乗らないが、

 バイクもバイクの世界も好きで、ずっと活動しているのである。

★今回の神戸ベンチャー会の講演会は

 今週の土曜日8月26日に、神戸三宮で13時からあるのだが、

 その詳細は以下の通りなのである。

 http://kobeventure.jp

 是非、関西の二輪ファンの皆さんに松島さんの話を聞いて頂きたくて、

 このブログをアップしている。

 勿論私も登山道夫さんと一緒に参加する予定なのだが、

 この私のブログをお読みになっている関西の二輪ファンの皆さん

 来られませんか?

 

 

 「異種・異質・異地域をみんな繋いで、いいときを過ごそう

 ガ基本コンセプトです。

 出来ればこんな機会に、ネットだけではなくて、

 直接お会いできて話ができる機会にしたくて、こんなブログをアップしています。

  

 場所は三宮の駅の東、徒歩3分のこちらです。

 

 是非、お気軽にお越しになってみて下さい。

 みんな、気さくないい方ばかりです。

 

2023年7月9日

カワサキ単車の昔話  7    創成期のカワサキのレースライダー

投稿者 : rfuruya

2023-07-05 06:01:34 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの単車事業は昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタートし、

昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課が出来て、私はその当初からその営業課に参加するのだが、

昭和37年(1962)鈴鹿サーキットが出来て、確かMFJもこの年のスタートだから、

日本の二輪事業が本格的に動き始めたのはこの年だと言ってもいいのかも知れない。

この年の11月に行われたMFJ第1回全日本ロードレースでは、

250cc三橋実・350㏄片山義美がいずれもヤマハで優勝を飾るのだが、

その優勝者の二人は、その後のカワサキのレースで密接な関係が出来るのである。

そして創成期のカワサキの販売は国内市場だけであったし、

当時の主力車種は50㏄モペットだったから、

販売分野ではカワサキは全く振るわなかったと言っていい。

創生期のカワサキの国内での動きと言えば、レース活動であった。

当初はモトクロス中心だが、こんなライダーを揃えて、

モトクロス分野では「赤タンクのカワサキ」で一世を風靡したと言っていい。

  

 

 

昭和41年(1966)5月には、

モトクロスライダーの山本隆鈴鹿ジュニアロードレースに参加し、

初出場ながらホンダ・ホンダ・カワサキと3位入賞を果たして、

翌月からは正規にカワサキもロードレースに参画することになり、

片山義美の秘蔵っ子・金谷秀夫と契約し、

三橋実・安良岡健の二人もモトクロスからローライダーに転じることになるのである。

これはFISICOで行われた、日本GPのジュニアロードレースで、

当時のアメリカのTOPライダー・ガリーニクソン(ヤマハ)と金谷秀夫が、

息詰まる大熱戦を展開し、

二人が「同タイムのベストラップ」を記録するなどしたのである。

 

 

★そんな創生期でのレース活動で一緒だったライダーたちは、

 当時は単なる若いライダーだったのに、

 みんな素晴らしい成長を遂げられて、

 「世界」とか「日本」を代表する素晴らしいライダーに成長されたのである。

 そんなライダーたちとの写真は私の宝物である

 

 そんな中からの何枚かをご紹介してみよう。

 神戸木の実関連、御大片山義美さんを囲んで、

 

 

これはその「片山義美を偲ぶ会」の開会前に・・

  

 これは東京で私がシャッターを切ってる。

 かってのカワサキのライダーたち、みんな立派になられた。

 金子豊・岡部能夫・山本隆・星野一義

  

 マウンテン・ライダーの50周年記念パーテーで

 吉村太一ちゃんと。

 みんな立派になられたな。

 久保和夫さんとは、何故か近かった。

  

  金谷秀夫とは特にいろいろとあって想い出いっぱいなのである。

  この日が金谷と最後になってしまった。

  山本隆さんも今や大スターなのだが、彼は私より10歳若い。

  彼に頼まれて仲人をしてるのだが、

  こんなに大スターになるとは当時は思ってもいなかった。

  

  

 

2023年4月2日

パソコンのある生活がまた始まる

投稿者 : rfuruya

2023-04-02 02:54:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★パソコンが突然壊れてしまったのが、3月24日だったと思う。

 直ぐ富士通のメーカーに送ったのだが、点検をしたが特に問題はないということで、今日家に戻ってきたのだが、

 なぜか今度はキーボードと本体が繋がらなくて、パスワードが打ち込めないので使えない。

 パソコンに詳しい方に夕方来て頂いていろいろやって貰ったら繋がった。

 一週間ぶりに「パソコンのある生活がまた始まる

 この画面のサッカー選手は、アメリカでプロ選手としてやって孫・門野真也で、

 パソコンのホームページに使っている。

 

 この雑感日記も2006年9月から休まずに続けてきたのだが、

  ちょっとだけの中断で済んだのでほっとしている。

 その間スマホで写真のアップなどしたのだが、

 スマホは今まで使ったことがなかったので、文字を打つのが大変だった。

 でも、何とかスマホで文字が打てたのが収穫だったとも言える。

 「アーモンド咲いてますか?」と積山さんから質問があったのだが、

 その質問に答えるのが億劫で放っておいたのだが、

 パソコンなら文字を打つのもスムースなのである。

 「積山さん、咲いてましたよ。写真も撮ってきました。

  

★ やっと元の生活に戻れてホントにホッとしている。

  世の中も4月になって、会社も学校も新しいスタートである。

  それに合わせて、私の生活もまた新しいスタートである。

  皆さん、またよろしくお願いいたします。

 

2023年3月2日

カワサキの昔話 3題

投稿者 : rfuruya

カワサキの二輪事業には、私はご縁があって

 カワサキが2輪事業をスタートさせた1960年(昭和35年)から

 約40年1999年まで担当させていただいたので、

 その間の想い出話もいっぱい持っている。

 今では普通に語られていることも、

 ちょっとしたことから残っているので、

 若しあの時「そんな判断」をしなかったら、どんなことになっているのだろうか?

 そんな「カワサキの昔話 3題」をご紹介してみよう。

★まずはカワサキだけが今も持っている「ユーザークラブKAZE」だが、

 kAZEがスタートした1989年当時は、

 ホンダはHART,ヤマハはYESS、スズキはじゃじゃ馬など各メーカーともユーザークラブを持っていて、

 むしろカワサキはそれに追随する形だったのである。

 ただ遅れてスタートしたカワサキは、 

 KAZEのユーザー管理をするソフト会社ケイ・スポーツ・システム」を立ち上げて、

 本格的に取り組んでスタートしたので、30年も経った今も、残っているのはKAZEだけなので、

 当時は3万人に近い会員で他メーカーを圧倒していたのである。

 

 当時ホンダのHARTは会員10万人と豪語していたが、

 現場に集まるユーザーの数はカワサキが圧倒していたので、

 ホンダさんから「カワサキは一体何人いるの」との質問を受けたりしたのだが、

 「ホンダさんは10万人」と言ってるじゃないですかというと、

 「あれは延べ10万人で、現実は1万人ちょっとです」というお答えだったのである。

  

 カワサキが3万人もいて、今も残っている理由は、

 どのメーカーも年会費を取るので1年経つとその期限が来て、

 毎年人数を維持するのは結構ムツカシイのである。

 カワサキはそれを見越して会員カードをJCBと組んで「JCBカード」にしたので、

 その期限が来ても辞めることがムツカシイのである。

 

 その第1号の機関誌は1989年1月に発行されているのだが、

 こんな立派な形ではなくて、カワサキのニュースを何枚か、

 一つの封筒に入れて送っていたのが最初で、

 こんな立派な形になったのは数か月後のことなのである。

★今回の機関誌にはこんな「ジェットスキー」のニュースも載っているのだが、

 ジェットスキーがカワサキの正規の商品として取り扱われるようになったのは1983年からで、

 それまではこれは二輪事業部の商品ではなくて、

 発動機事業部が開発し、アメリカのリンカーン工場で生産し、

 アメリカの販社KMCだけがアメリカ市場で販売していて、

 当時、日本には商社を通じてホントに少数が輸入されていたのある。

 

 そういう意味では「カワサキの正規商品」ではなかったのだが、

 これを川崎重工業の正規商品として、取り扱うようになったのは、

 1983年大庭浩本部長の頃で、当時の企画課長武本一郎さんが発議し、

 ジェットスキーが日本を含め世界展開になったのは、それ以降のことなのである。

 若しあの時、武本課長がそんなことを言いださなかったら、

 ジェットスキーはその後どのような展開になってたのだろうか?

 ただ、その時も私は国内に「ジェットスキー専門」の販売会社を設立し、

 ボート屋などではなくて「ジェットスキー専門販売網」を創ったし、

 JJSBAなどのレース協会と新しい遊びジェットスキーの世界を創りだしたのである。

★ 今回のKAZEの裏表紙には「Ninja」が載っている。

 最初の「Ninja」もちょうどその頃、大庭本部長時代に開発されたものだが、

 そのネーミング「Ninja」はアメリカのKMCのアメリカ人の発案で、

 このネーミングに明石サイドの技術部が「忍者の印象」が暗いと猛反発だったのである。

 

 その「Ninjaのネーミング」について、

 今では日本側が反対したとネットなどでも書かれているが、その記述は何となく迫力がない。

 実はより具体的にその経緯を知ってるのは私だけなのである。

 日本側の猛反対の意向を受けて、アメリカ出張時大庭本部長自らKMCに説得を試みられたのだが、

 アメリカ側の反発が強硬で、当時のKMCの田崎社長が徹底的に反論、

「Ninja」はそんな暗いイメージではなくて「007ようにカッコいい」イメージだというのである。

 事実アメリカでは当時Ninja という映画などもあって、そのイメージは日本とは全く違った新しいものだったようである。

 その時は大庭本部長をしても説得することが出来ずに、

 最初のマシンはアメリカだけが「Ninja」で、

 欧州市場などには「GPZ900」のネーミングで発売されたのである。

 その大庭さんと田崎さんの「Ninja論争」のその場に同席してたのが私だけなので、そんな経緯を知ってるのも私だけなのである。

  

   

 

 その後、Ninja のネーミングは好評で

 このGPZ900シリーズだけではなくて、

 いまではカワサキを代表する「スーパースポーツ車の冠」として使われているのである。

★ こんなカワサキの昔話を語れるのも、今では私だけになってしまったのかも知れない。

 世の中は「ひょんなこと」から「ひょんなこと」になるのである。

 何事も物事は片手間ではなくて「ちゃんと専門的に取り組むこと」が肝用なのである。

 

 私だけが語れる「カワサキの昔話 3題」である。

2023年2月22日

今年の春は早いのかな

投稿者 : rfuruya
★ 2月も20日を過ぎてるのだが、
 昨日あたりはまた寒さがぶり返して、
 この辺りでも朝から何度か雪がちらついたりした。
 でも、今年の春は早いのかな?
 我が家の庭の福寿草がもう芽を出している。
 例年芽を出すのは、3月に入ってからだと思ったのだが・・・
 今年の冬の寒さはどうだったのだろう?
 暖冬だったような気もするのだが、もう一つよく解らない。
 
 私の感覚では、庭の福寿草が芽を出せば「春だな」という感じを持っている。
★ そう言えば、公園の梅もこんなに花開いている。
 
  我が家の梅は、まだ蕾なのだが、
  この梅たちは早咲きなのかな。
 あと10日もすれば3月だから、
 「ぽかぽか」とした春の暖かさがやってくるだろう。
2023年2月21日

明石と私

投稿者 : rfuruya
★最近になって明石が急に全国区で話題である。
 人口が減少する中で「10年連続人口増」だとか
 「全国戻りたい街第1位」だとかになっている。
 
 こんなになったのは
 こんな名物市長さんの功績なのか?
 
 いろいろ言われてはいるけれど、結構なことである。
★私自身は、明石とは結構深いご縁があるから、
 明石が有名になることは結構なことである。
 私と明石はどんな関係があるかというと、
 ●ずっと昔松平家のお殿様と一緒に福井から明石にやって来たらしい
 ●そんなことで松平家の菩提寺・長寿院にお墓がある
 ●生まれ故郷もかっての武家屋敷のあった上ノ丸だが
 ●中学校は神戸だが、高校は明石高校だった
 ●高校時代は野球部で明石公園の球場で練習し
 ●昭和25年の夏には甲子園にも出場した
 ●明石は川崎航空機があったので戦時中にひどい空襲があり
 ●旧い明石は焼けてしまって本家も焼失してしまったが
 ●ご縁があって私はその川崎航空機に入社して40年もお世話になった
 ●川崎航空機に入社したのは伯父が明石でやっていた錦江ホテルが戦時中に軍の宿舎に接収された関係で繋がった
 ●今は三木に移ってきたが、年に何回かは墓参に明石を訪れている
★そんなことで私の本籍は今でも「明石市上ノ丸2丁目720番地」なのだが
 今はそこには20軒以上の家が建っていてそんな番地は現存していない。
 そのほんの一部だが「本家」は今でもそこにいる。
 明石との関りはいろいろあるのだが、
 息子は鎌倉、娘はアメリカにいて明石とは無縁なので、
 明石との関りも「私の代」で終わってしまうのだろう。
 そんなこともあるので想い出いっぱいの明石の写真を並べてみる。
 これは私の生まれる前の写真だが、私が産まれた上ノ丸の屋敷である。
 祖父も写っているが私は祖父を知らない。
 この当時はここは別荘で
 
 今の魚棚のある細工町に本宅があって、
 これは伯父も父も早稲田の大学時代の写真だが、
 真ん中で母に抱かれているのが私、
 一番右は母の兄で国鉄スワローズの初代総監督・楠見幸信
 ベーブルースと戦った当時の全日本の1番センターだったとか。
 これは伯父が経ってた錦江ホテル。
 明石城は錦江城と呼ばれていて「錦江」は明石を表している。
 このホテルが戦時中に軍の宿舎にするということで接収された関係で
 当時の川崎航空機とのご縁が出来た。
 こんな旧い写真を見ると、
 戦前までは、私も「ぼん」で育ったようだが、戦後に生活は一変した。
 明石高校時代、よく練習した明石公園の明石球場である。
 お陰様で昭和25年の夏は甲子園出場もしている。
 
 ご縁があって川崎航空機の明石工場に40年間お世話になった。
 今は三木に移ってしまったが、
 年に数回は墓参に明石に行くことになっている。
  
 いつかは私もここに戻って来て
 子午線の通っているこの地で永久に眠ることになるのだろう。
 いろんな意味で、私にとって「明石はなかなかいいまち」なのである。
2023年2月20日

めちゃ賑やかだった三木総合防災公園

投稿者 : rfuruya
★ 毎朝のようにお世話になっている三木総合防災公園だが、
 いつもはホントに人は少なくて、公園を借り切っているような感じなのだが、
 この週末には中学生の「駅伝大会」があってこんなに人がいっぱいだった。
  
 こんなことは滅多に見られない風景なのである。
 ここ公園は駅伝でもマラソンでも十分にできる広さで、
 街の中の道ではないので交通整理なども全く不要なのである。
 立派な陸上競技場もあるから、そんなトラックも使いながら、
 いろんなコースが取れるようである。
 女子が11時からだそうで、まだ始まってはいなかったが、
 コースを試走したりしていた。
★このほかにも週末には沢山あるコートでサッカーの試合や練習があるのだが、
それはサッカーコートの中だから、少々人が集まっても目立たないのである。
 
これは高校生だと思うが、沢山集まって体操をしていた。
こんなことも滅多にない風景である。
  
この週末はこんなに人の目立つところもあったが、
それはごく一部で、少し離れるといつものようにこんな感じなのである。
広い」ということは、いいことだと思う。
 
 こんなに広い公園があちこちに沢山あるのは三木だけのように思う。
 ホントに三木は、アメリカのように広い公園がいっぱいなのである。
 それも、近年というか山が開拓されて、幾つもの公園になっているので、
 昔からあった訳ではない。
 いま私が住んでいる緑ヶ丘も、かっては山か丘だった地域で、
 この三木総合公園とは地続きなのだが、
 そこまではクルマで来るなど、隣と言ってもホントに広大なのである。

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