肺結核で1年間の入院 自分史
★ 学生時代から肺浸潤になり入社当時も空洞があったりしたのだが、
全然休むこともなく野球などもやめなかった。
入社してからも3年間休まずに勤めていたのだが、
昭和35年(1960)に診療所の先生が代わって、当時も空洞があったので「野球は止めるように」と言われていた。
夏頃だったと思うが、ユニホーム姿を先生に見つかってしまい。
その直後の血液検査で「菌が出てる」ので「入院しなさい」と仰るのである。
菌が出てたのでは仕方がないなと、この年の10月25日から
当時三田・大原にあった川重の「大原療養所」に入院したのである。
いまは無くなってしまったが、この辺りは国立の病院もあり、一大結核療養病院だった。
当時はそれくらい「結核になる方」は多かったのである。
入院してから療養所でも「菌の検査」は有ったのだが、
菌など出ていなかったのである。
「菌が出ています」は私を入院させる方便だったようだが、
今になって思うと「天の声」だったような気がする。
★ この約1年の入院は私の人生で大きな転機になった。
1年で空洞も消えてしまったのである。
当時家内と付き合っていた最中だったが、
家内はよく見舞に三田まで来てくれたし、
週に1度ほどの頻度で手紙もくれたのである。
ここに入院するまではそんな病気のこともあって、
家内とは付き合ってはいたのだが、「結婚する」と言う決断は下しきれなかったのである。
1年間の療養生活で完全に全治したこともあり、
退院後1年で結婚することになるのである。
この写真が手紙の中に入っていた。
当時はカメラは持っていなかったので、3年も付き合ったのだが、
当時の写真は手紙の中にあったこの2枚の写真だけである。
★ そして退院してから配属されたのが、
新しくスタートした単車事業の単車営業課なのである。
これが私の「二輪との出会い」になったし、
退職する1998年までの約40年間一貫して「二輪事業」を担当したのである。
いまもFacebookなどで、二輪の愛好者とは親しく関係もあるので、
「二輪車」は持っていないし乗りもしないのだが、
「二輪車」は私の一生のトモダチとなったのである。
そう言う意味でも私の人生にとって、
この1年間の療養生活は、その後の人生の核となった1年間なのでる。
こんな日記を書きだしたきっかけの一つも「長くは生きられない」と思っていたからなのに、
以来、結構元気に生き続けて今91歳なのある。
「菌が出ています」が私の人生を決定づけた一言だったと思っている。