私のアーカイブス・定年後 その4
投稿者 : rfuruya
★2003年に70歳になった。
わが家系は祖母は101歳、母は103歳まで長生きしたのだが、
祖父は私が生まれたときにはもうこの世にはいなかったし、
父も伯父も50歳代で亡くなって「男は早く死ぬ」と思っていたので、
70歳になったときは、「不思議だな」と思ったのである。
それが今88歳でも元気なので、これは祖母と母のDNAのお陰だと思っている。
そんな70歳代の始まりである。
★この年には孫の門野真也が小学校に入学している。
魚や昆虫が好きで、魚とりやカブトムシ採りにしょっちゅう付き合わされているのである。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので
カブトムシなどこんなに沢山採ってきていたのである。
カブトムシは或る公園のある1本の樹に、なぜか群がっているのである。
そんな樹さえ見つければ、行くたびに何匹でも取れるものである。
そんな孫たちの遊び相手にも時間を割いているのだが、
長男の力也と真也がサッカー教室に入っているのだが、
力也は兎も角、「真也は運動はダメ」と日記に書いている。
サッカーよりは虫取りに興味があったようだし、こんなに太っていて
リフテイングも「5回出来た」と喜んでた時代である。
★この年よく覚えている出来事があった。
私は今は、ブログなど毎日世に発信をしているのだが、
若いころから日記も書き、現役時代は基本方針などみんな文章にして書いて残していたのだが、世の中一般の外に向かっては投書などは勿論一切自分の意見など言ったことはなかったである。
廣野ゴルフ倶楽部はこんな立地で神鉄緑ヶ丘駅のすぐ前で、
公道にこんなに長く接しているのである。
私はこの横を通って毎日明石まで車で通っていたのである。
廣野ゴルフ場は何度かプレーもさして頂いていて、それは見事というほど綺麗なのだが、
当時はこの道に面した部分は草茫々で、お世辞にも綺麗とはいえる状況ではなかったのである。
会社に通っている時代からずっと「何とか綺麗にならないかな」と思ってはいたのだが、それは言い出せないままに何十年も経っていたのである。
外に対して意見など言ったこともなかったし、
運動部育ちは、年上の人に例え正論であろうとも意見するなどは考えなれなかったのである。
永年の思いをやっとこの年に「70歳になったし、思い切って言ってみるか」と
この年の5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長さんあてに1通の手紙を書いたのである。
「公道に面している部分は、社会と繋がっていると言えます。
社会的地位の高い方がメンバーの廣野ゴルフ倶楽部ですから、
そこに接する社会の人たちに嫌な思いをさせるべきではないと思います。」と思い切って書いてみたのだが、
理事長さんからは非常にご丁寧なご返事を頂いて、即刻草は刈られたのである。
以来20年の月日が流れているのだが、毎年何回か整備をされて、
今のような状態が保たれているのである。
この一件は「外には意見を言わない」態度を変えさせたのである。
ちゃんと発信すればちゃんと対応して頂けるということが解って、
大げさに言えば、その後の「私の人生が変わった」そんな出来事だったのである。
そういう意味で、廣野の理事長さんに感謝なのである。
★ そんなこともあった「私の70歳」ではあるが、
パソコンでの「パンダ碁」を始めたのもこの年だし、
今も続いている「薔薇」に興味・関心を持ち出したのもこの頃なのである。
日記を読み返してみると
飼っていた犬のトム・ラブのトムのほうがちょっと調子が悪くなってる。
息子と沼島に鱧釣りにも出かけたりもしている。
この年阪神タイガースが星野監督で優勝をしている。
野手では、今岡・赤星・金本・桧山・矢野・藤本など。
井川がエースで、下柳や藤川など懐かしい名前が並んでいる
娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ市場進出が決まって、
12月には娘婿はアメリカに出張しているし、
年末の12月30日には単身アメリカに滞在が始まっているのである。
70歳、ある意味定年後の新しい生活スタイルが始まった年だとも言える。