カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス その 4
投稿者 : rfuruya
★ 広告宣伝課の後は、東北6県の営業第一線を『仙台事務所長』として4年間担当したのだが、
私にとってこの東北の4年間は、『誰も経験しなかった』ような貴重な4年間なのである。
広告宣伝課での3年目の11月に、
突然『東北仙台に新しい事務所を創れ』という指示を受けたのである。
当時の事業本部長でカワサキオートバイの社長も兼務されていた岩城良三さんが、
東北の代理店会で代理店から『仙台に事務所を』という要望を受けて、
その場で即座に『創る』ことを約束されたという話が職場にも広がったが、
それがまさか『私にお鉢が回るとは』全く予想もしていなかったのである。
★私の川崎航空機の入社試験の『君は成績悪いね』で始まった面接で、
『ところで君は野球をやってたな』と話題を変えて頂いた、
当時は総務部長であった岩城さんである。
実は1億2000万円の広告宣伝の管理は、とてつもなく膨大な額でもあったので、
その管理は担当の私が直接岩城本部長に報告するという『異例の形』だったのである。
細部の指示などは全くなくて、殆ど任して頂いたのだが、
たまに『厳しい指摘』があって、それは本当に厳しかったのだが、
親父に怒られるような『愛情に満ちた』ものだったのである。
『東北への異動』は直接の上司・苧野豊秋さんから言われたのだが、
しばらくして、岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
『ご苦労だが、頼むな』と一言言われたのが今も印象に残っている。
★ この異動が私の初めての『明石からの異動』であった。
当時の東北市場にはまだかっての地元代理店が10店以上も残っていて、
カワサキの中で最もよく売っていた最高の市場だったのである。
それまでは東京の営業部から担当者が出張ベースで営業活動を行っていたのだが、
それを『仙台に事務所を創って統括せよ』というのだが、
それ以上のことは何の具体的な指示もないのである。
日本で初めて創る事務所だから誰もその具体的なことは解っていなかったのだと思う。
年が変わって1月初め、私は1台のワスプを会社から餞別に貰って、
単身、明石から仙台まで、その車の陸送も兼ねての移動であった。
文字通り独りで、どこに事務所を創るのかという指示も全くなく、
全て自らが考え実行するというタートだったのである。
昭和42年(1967)私がまだ34歳のことである。
★1年後には新しく土地を購入し、そこに仙台事務所を創ったのだが、
それが現在の『カワサキプラザ』なのである。
仙台事務所長になって、正直『TOPになった』と思った。
従来のような大企業の事務所の中ではなくて、
職制上は部長もいるのだが、現実の事務所にいる中では間違いなくTOPで、
仕事の内容も誰の指示も受けずに『全て自分で決めれるTOP』なのである。
普通のサラリーマンとは一寸違った『私のサラリーマン生活』の始まりだった。
68歳で現役を引退するまで、『自分で決めて自分のやりたいようにやる』
それができる不思議なサラリーマン生活の始まりだったのである。
★ 東北6県すべての県にあった代理店の社長さんは、
各県に何百店もの販売店を傘下に持ち、
永年二輪営業を展開された経験豊かな方ばかりで、
それを全く営業経験もない34歳の私がお相手をする訳だが、
これはいま思っても大変なことだったのである。
ただ私は当時の川崎航空機の『メーカー社員』ということで、
従来はカワサキオートバイ販売の販売会社の方の担当だったので、
この『メーカー社員』ということに若くても『メーカーから来た』ということは格別の重みがあったようである。
赴任した1月末から、各地で代理店が開く『販売店会議』に招待されて、
『仙台に来たメーカーの方』という紹介での挨拶をするのだが、
100人以上の人前で話をすることなど『初めての経験』だったのだが、
これは『不思議なほどスムース』に結構長い話が『上手く出来た』のは、
ほんとに自分でもびっくりした。
何の具体的な指示もないない『仙台事務所の創立』を今から私なりにやっていこうという『意気込み』だけはあったので、
それがいろんなことを『語らせてくれた』のだと思っている。
それまでも『他人がやったことがない・初めての仕事』の連続ではあったが、
この仙台事務所はそれを全く一人から立ち上げていったのである。
★ 当時の東北では、岩手カワサキが毎年全国一の実績を上げていたのだが、
このような抜群の成績を残していたのは、
久保克夫社長の独特の経営が展開されていたからである。
『私の恩人・久保克夫さん』というこんなブログも残している。
詳しくお知りになりたい方は、是非ご一読を!
岩手の日本一の原動力は
『販売網である』
『販売店への対応は』
『戦略的な対応は』
『システムでの対応』
『人間関係の維持』
『厳しさと優しさ』
『販売店への対応は』
『戦略的な対応は』
『システムでの対応』
『人間関係の維持』
『厳しさと優しさ』
これらのことを私は久保さんに学んだと、そこには書かれている。
そういう意味でもこの『東北での4年間の経験』は私にとって貴重なものだったのである。
★ この時代は日本は大量生産・大量販売真っ盛りの時代で、
それは二輪業界でもホンダさんを中心に大量販売を各メーカーとも目指していて、カワサキも例外ではなかったのである。
そんなメーカーの方針通りに大量販売に徹していた、東北の代理店網だったのだが、
当時の販売方式がホンダの50ccの『カブ』を大量に売るための資金力もない自転車屋さんに委託販売するという独特の日本式販売方式であったこともあって、
代理店が大量に販売しようとすると膨大な資金がいるのである。
そんなことから『資金繰り』が続かずに、メーカーの言うことを聞いて、
数を多く売る代理店にはメーカの貸付金などの関係で資本が入り、
そのまま『メーカー系列店』という形になって行ったのである。
より極端に言うと
『カワサキに協力して沢山売った代理店から潰れて行った』とも言えるのである。
自らの実力以上には販売をしなかった代理店は、メーカー系列にはなることなく自らの経営は維持できたが、
代理店資格は自然になくなって一販売店の位置づけとなっていくのである。
このような二輪業界の推移ではあったが、
こんな事実を見て、
二輪の販売経営は『自分の力以上には売ってはならない』
健全な経営を維持するには『営業外損益の健全化が必須』であることが理解できたのである。
これはその後メーカー自体でも同じような現象が産まれて、
カワサキの二輪事業の経営の危機が何度かあったのだが、
それは自らの実力以上に販売をしようと頑張った時期なのである。
★東北での仙台事務所長は、昭和42年(1967)からの4年間で
その間には1969(昭和44)年4月1日 には、
川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併もあって、
カワサキはそれを機に50ccの小型車生産を中止することになるのである。
ようやく日本の二輪車需要も小型実用車から中間スポーツ車への移行がなされて、
250A1やマッハⅢなどの中大型車と共に
120C2SSなどのスポーツ車両も世に出て、
モトクロスが盛んであった東北では大いに人気があったのである。
★ そんな世の中の動きもあって、
『小型・実用車のカワサキ』から『中大型車のスポーツのカワサキ』への
イメージチェンジを図り、その市場も東北や九州中心から
東京・大阪・名古屋など太平洋メガロポリスの大都市中心に変わって、
私は1970年10月から大阪を中心とする近畿2府4県を担当することに
なるのである。