中学・高校・大学 私の学生時代 その5 自分史
投稿者 : rfuruya
★ 高校3年生の年の1月2日に突然父が亡くなって、
『その治療費も要らなくなるので』伯父が『大学に行け』というのである。
当時は健康保険などない時代で、父の打っていたマイシンの注射は非常に高価で、それも当時は殆ど手に入らなかった貴重品だったのだが、
父の知人に明石の医者が多かったので、そんな医院から明石に入ったマイシンの殆どを手に入れていたのである。
その値段は、1本1000円と今の金に直したら10万円もするそんな金が要った時代なのである。
その費用を伯父は明石上ノ丸の土地を売って工面してくれていたである。
当時の土地は1坪2000円ぐらいだったと思う。
それまでは父が寝ていたので、就職をしようと思っていて、
高校3年時代も全然受験勉強らしきものはやっていなかったのである。
それが1月になって『突然大学へ』などと言われて、
兎に角、受験科目が少なかった神戸商大を受けることにしたのである。
英語・数学・国語・地理の4科目だった。
その年の神戸商大は歴史的に見ても最大の競争倍率で『16.5倍』もあったので、
通る訳がないと思っていたのだが、何とか通ったのである。
英語・国語はそこそこ、数学は何とか答えは合っていた。
地理は白紙に世界地図を画いて、ジブラルタル海峡や子午線を入れる問題で、
私は地図は好きなのでラッキーだった。
しかも子午線というのは生まれ故郷の明石を通っているのである。
それでも『なぜ通ったのか?』自分でも不思議で入学後に野球部長の教授に聞いてみたら、
『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。
これは伯父が手を回したに違いないのだが、『県会議長が頼むと通るのですか?』とさらに聞いたら、
『当落線上はいっぱいいるからな』と解ったような解らぬ答えだったのである。
★ そんなことで入った神戸商大だったのだが、大学時代は殆ど教室にも入らず、野球一筋になってしまったのは、
新入生の歓迎会で、先輩がなぜこんなことを言ったのか解らぬが、
『この大学に入ったら勉学に勤めること、幾ら運動部など強くてもダメ』と言ったのと、
当時は就職難の時代で、学生は『一つでも多くの優を取る』ことに集中していた風潮に反発したのだと思う。
そんなこともあって、学校には行ったが『食堂とグランド』だけで教室には殆ど入らなかったのである。
それでも単位を取ることは試験さえ受ければ何とかなって、
『可』ばかりだったが単位は早く取ってしまっていたのである。
野球部の私と同じような連中と『二桁モスキート』と『可』が二桁あることを楽しんでいたのである。
『モスキート = mosquito = 蚊 = 可 』なのである。
★ そんな大学時代だったのだが、神戸商大には大いに愛着もあるし、
食堂のおばちゃんとも仲が良かったし、
そこに『たむろしていた運動部の連中』も懐かしいのである。
こんな学舎だった。
今は大学名も兵庫県立大学と変わり新しい場所に移っているのだが、
当時はこんな立地で星陵高校の直ぐ上だったので、
今は高速道路になっている、この辺りだったのだと思う。
今でも『商大筋』という道の名前だけは残っている。
★ 大学時代、私は引き揚げ者で母子家庭ということで授業料免除で且つ奨学金を頂いていたので、
こういうとおかしいが『結構裕福』で『給料を貰って大学に通っていた』
ようなところがあったのである。
2回生の秋に『肺浸潤』になってしまったが、その後も野球は続けていたのだが、
ただ『ひょっとしたら早く死ぬかも?』と思って、
この年から『日記』を書き出したりしているのである。
★ 大学3回生の時に、ずっと世話になっていた伯父(古谷脩一)が亡くなってしまって、
その葬儀のあと、当時の川崎航空機の社長だった砂野仁さんに会社に呼ばれて、
『若し就職で他がダメだっても、その時はうちにいらっしゃい』と言って頂いたので就職は川崎航空機と決めていたのである。
ところが、卒業年次の昭和31年がなぜか大変な年で、就職も大変で、
砂野さんから『今年は採る人数が少ないし、1年大学の卒業を伸ばせ』と仰るのである。
単位は取れていたので、卒論だけ提出せずに1年延ばすことにしたのだが、
ゼミの先生だった野球部長から『野球部の監督を』という依頼があって、
5回生の時は野球部の監督をやっていたのである。
ただ、この1年は授業など一切受けないのに、
授業料免除も奨学金もなくなって、ちょっと大変だったのである。
★ 私自身の88年の人生は、『何になりたい』と思ったりしたこともなく、『自分の進路』を自分で決めたことも一切なくて、
周囲の人たちの勧めるままに動いた結果なのである。
そんな『人が薦めてくれた道』の上を歩いてきただけなのだが、
そんな中でも『自分がやりたいこと』だけは常に明確に持っていて、
それに集中した人生だったなと思っている。
大学時代はそれが『野球』だっただけのことである。
それと人を信じて生きてきた。
川崎航空機の社長の砂野さんが『面倒を見る』と仰ったので任していたら
『今年はダメだから卒業を1年延ばせ』と仰るのである。
ホントに1年延ばしたら大丈夫かどうかは解らないのだが、
100%信じて、その年の就職活動など一切やっていないのである。
『信じる者は儲かる』とホントに性善説で生きてきた。
そして野球部長に頼まれての『野球部監督』を務めたりしたのだが、
その大学時代の野球部関連については次回に書くことにしたい。