中学・高校・大学 私の学生時代 その4
投稿者 : rfuruya
★ 明石高校の3年間は『野球部=100%』と言ってもいい。
当時はまだ『名門明石』と言われていた。
これは中京-明石の甲子園での25回戦から来るのだと思うが、
その25回戦を戦った先輩たち横内・峯本・加藤さんなど、
練習にも試合にも来られて、厳しく指導されたのである。
特に夏の大会前は殆どが明石公園球場での練習だったのだが、これは大変だった。
1年生の補欠時代は、練習が終わって家に戻るのが夜の11時近くになったりしたのである。
この時期、1948年から51年まで3年間は日本でも『サマータイム制』が実施されていたのである。
暗くなってノックが出来なくなるのが8時過ぎ、
それからベースランニングなどあって練習が終わるのが9時過ぎ、
1年生はそれからグランド整備などして球場をでるのが10時近くになっていたので、
それから家に戻ると、ホントに11時になったりしたのである。
そんな厳しい練習の毎日ではあったが
昭和25年(1950)の夏には兵庫県で優勝し甲子園出場を果たしているのである。
当時は組合せが決勝戦まで決まっていて、
スポーツ新聞などには優勝は『瑞陵・小倉・明石か』などと
優勝候補の一画に上げられたりしたのだが、
1回戦で初出場の鳴門高に4-2で敗れてしまうのである。
★こんな夏の大会に出たのも『いい想い出』なのである。
当時の明石が強かったのはピッチャーがよかったからである。
前回もアップしたが同期の溝畑圭一郎はそんなに大きくもないのだが、
兎に角『野球は上手かった』
彼が投げるとホントに2点以上は取られたりしないのである。
『野球は』と敢えて書いているのは『ゴルフ』など全くダメなのである。
卒業後は神戸製鋼に入って都市対抗には常に常連で出場していた。
兵庫県のどこが勝っても、『補強選手』で選ばれるものだから、
毎年出場していたように思う。
そんな明石高校の野球部だったが、
今も甲子園春の選抜をやっているが、昨今の高校野球に比べると
守備は兎も角、打撃のレベルが全然違うように思う。
当時の高校球児で甲子園でホームランを打つ選手など見たこともなかったのである。
甲子園はプロ野球の選手でも広すぎて『ラッキーゾーン』が作られていたし、
明石球場にもラッキーゾーンはあったのだが、練習でもホームランは見られなかった。
私はショートだったのだが、これが3年当時の明石の内野陣である。
飛び抜けて『上手い選手』もいなかったが、
明石の内野は堅実ということで定評があった。
当時は、練習試合数なども今のように多くはなかったが、
私自身は高校時代『エラーをした』という記憶がない。
『エラー』をしなかった記録などもないのだが、少なくとも覚えていない。
チームとしても殆ど『エラー』などしなかったように思うのである。
★高校時代の写真と言えば
野球部に関連するものばかりである。
特に我々の年次は、旧制中学の最後の年次だったので、
下級生が入ってこずに中学の3年間と高校の1年の4年間を『最下級生』で過ごしたので、
2年生になって初めて後輩が出来るのだが、
そんな下級生を本当に歓迎し可愛がったところがある。
最近よくある部内でのいじめや暴力事件など考えられもしなかった。
野球部の同期の連中たちである。
この人たち、社会に出てからもずっとお付き合いがあった。
小学校・中学校或は大学の同窓生は同窓会で会うぐらいだが、
明石の野球部の連中とは社会人になってからもずっと付き合いがあったのだが、
それは明石の野球部時代がよかったからだと思う。
みんな勉強はそんなにしなかったのに、
社会に出てからは成功者になっているのは不思議である。
★そんな明石高校は兵庫県の自動車試験場の直ぐ近くなので、
免許更新の時などに覗いてみたりするのだが、
校舎などは新しく建て替えられている。
学内には『甲子園の足跡』なども残されていて
名門と言われた戦前が多いのだが
昭和23年の春(1948)
昭和25年の夏(1950)と戦後も2回続いていている。
昔のグランドもそのまま残っていて懐かしい。
★なぜ、夏の大会前の練習が明石球場だったかというと、
内野が今のように黒土で整備されていなくて、小石がいっぱいだったからで、
当時、内野が黒土で整備されているようなところはなかったのである。
明石球場は明石公園内にあってこんないい立地の当時から素晴らしい球場だった。
私が高校大学時代は巨人軍が毎年春のキャンプを張っていた。
川上・千葉・青田・与那嶺・別所などのスター選手がいて広岡が入団したばかりの頃である。
長嶋も王も入団時のキャンプは明石球場だった。
私の高校2年の1950年には国鉄スワローズがスタートとしている。
この年の8月に『金田正一』が高校中退して入団しているのである。
その時の総監督が伯父(母の兄)の楠見幸信なのだが、
伯父楠見幸信は宮武・山下・水原など慶応の黄金時代のメンバーで、
1番センターでスター選手だったようである。
当時の全日本にも選ばれアメリカ代表とも戦ったりしている。
卒業後は東鉄でプレーしたのだが、
そのチームメートだった前川八郎さん(後巨人に入った名選手)が当時の兵庫県工の監督をされていて、
明石球場で練習試合をした時、『私のショートの守備』を褒めて頂いたりして、非常に嬉しかったのを覚えている。
★ こんな野球一筋の高校時代であった。
ようやく修学旅行も復活した時期なのだが、
野球部はその間、島根・鳥取・山口と野球遠征をしたので、
私は修学旅行の経験はなく学生生活を終わっている。
高校時代の野球以外の想い出としては、
学校の先生がたがよかったという印象が強い。
野球部長の塚本先生にもお世話になったし、
先生がたにも当時の野球部は人気があったように思う。
いま、明石商業が野球では有名だが、
当時は明石高校に商業科があって、そこが分かれて独立したのが
明石商業なのである。
前述の溝畑や同期で同じく神戸製鋼の野球部に進んだ藤原は二人とも商業科だった。
★ただ、この高校時代は父がずっと病床に臥せていて、家庭環境は苦しかったのだと思う。
明石の伯父にも世話になったし『楠見幸信』にもいろいろ就職のお世話になったりしていたのだが、
高校3年の卒業直前の1月2日に父がなくなって、私は大学に進むことになったのである。