大槻幸雄さんとのご縁いろいろ
投稿者 : rfuruya
★ 昨日、我が家に Mr.Bike BG の4月号が送られてきた。
なぜ? と思ったら
こんな大槻幸雄さんの記事が掲載されていたのである。
昨年の末のことだが、『カワサキZ1ファンクラブ』のメンバーが
大槻幸雄さんの殿堂入りのお祝いに、
Zのシリンダーヘッドのカットモデルを贈呈するというので、
私もご一緒した時の記事なのである。
この記事にもあるように川崎重工が50個限定でつくった
シリダーヘッドの中の一つをこんなカットモデルにして
大槻さんに差し上げたという貴重なものなのである。
カワサキZ1ファンクラブのメンバーでもあり、
この時も同行され
Mr.Bike BGの寄稿もされている向笠暁彦さんの記事なのである。
★ 私もご一緒にとお誘いがあったものだから、
この時も大槻さんとご一緒の写真に納まっているのだが、
カワサキの現役時代から今も尚、50年以上に亘っての大槻さんとのお付き合いなのである。
二輪の技術のことなど、さっぱり解らない私なのだが、
不思議なぐらい延々と大槻さんとのご縁は続いているのである。
一番最初にお会いしたのは1965年6月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースの時で、
この時大槻さんはカワサキで初めて組織されたファクトリーチームの監督をされたのである。
当時私はレース運営のマネージメントをやっていたので、この時初めてお会いしているのだが、
それ以来、何かとご縁があって本当に不意議なのである。
最初のレース関係は大槻さんがドイツ留学される1965年8月までなのだが、
その後のご縁を連記してみるとこんなことなのである。
● 1966年はカワサキが本格的にGPレースに参戦の年なのである。
大槻さんは留学される前までは『GPレーサー開発』も担当されていて、
GPライダー契約などにも携わっておられて、
66年マン島で藤井敏雄さんがプラクテイスで転倒事故死されたのだが、
その遺体をマン島から送りだされたのが大槻さんで、
羽田で遺体をお迎えしたのが私という悲しい想い出もある。
● その1966年秋の日本GPにはカワサキが初めて出場するのだが、
そのGPチームの監督をされたのが大槻さんで、
チームのマネージメントをしていたのが私なのである。
● このレースを最後に大槻さんも私もレースチームから離れて、
大槻さんは市販車開発に、私は東北の営業担当となるのだが、
翌1967年早春の東北6県の代理店会議に技術説明に来て頂いたのが大槻さんで、
宮城・秋田・岩手・青森と回って頂いたのである。
この時大槻さんが私に話されたのは『世界一のバイクを開発する』と
まだ何も決まっていない構想段階なのだが、
滔々とその夢を語られたのである。
これが間違いなく『Zのこと』で、
そういう意味では『Z開発の夢』について最初に聞いたのは私かも知れないのである。
Zが世に出たのはこれから5年先のことなのである。
●1977年、私が開発プロジェクト室ので東南アジアを担当していた頃、
大槻さんが技術部長の時のことだが、
CKD関連のクルマとしてGTOの開発をお願いに上がったのだが、
最初はなかなか首を縦に振って頂けないのである。
多分、大槻さんは小排気量車は興味が薄いのかも知れないのだが、
諦めずに粘っていたらやっと承認が出て、
カワサキで最大のヒット商品GTOが世に出ることになったのである。
CKD なるがゆえに『部品出荷』で、明石工場に台数の記録がないのが残念なのである。
私にとっても最初で最後の商品企画に関係した『想い出深い車種』なのである。
● その後大槻さんは単車からガスタービンの方に動かれたので、
会社での直接の関係は無くなるのだが
現役を引退して『Z1会のゴルフ』でご一緒するようになったのが2004年のことなので、
もう15年以上になるのである。
私も88歳になったのだが、
大槻さんは既に90歳で益々お元気なのである。
今年もコロナが収まれば『Z1会』のゴルフで、
またご一緒出来る日が楽しみだし、
『Z発売50周年』も来年なのである。
2022年には『Z発売50周年』を
『カワサキZ1ファンクラブ』の皆さんと、
盛大にお祝いしようと思っているので、
大槻さんも私も、何とかそれまでは元気にいたいと思っているのである。