川崎航空機に入社3年間 その1 自分史
投稿者 : rfuruya
★ 自分史を最近のことから逆に若いほうに向かって書いてきたのだが、
とうとう川崎航空機入社の時期にまで戻ってきた。
川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)で神武景気と言われた年なのである。
そんなことで同期会の名称は『神武会』と名付けられている。
技術屋さんは面接だけの無試験みたいな感じで、筆記試験があったのは事務屋だけだった。
私の面接は『君は成績悪いねえ』と言う当時の塚本碩春人事課長の一言から始まったのである。
確かに大学では全く勉強などせずに野球一筋だったので、
間違いなく成績は悪かったのである。
当時『優の数』が20ぐらいあるのが普通なのだが、
私は5つだけであとは『良』も少なく『可』ばかりだったと思う。
その『優』も体育理論・体育実技と、
試験さえ受ければ殆ど『優』を頂ける中国語1・2 と
野球部の部長のゼミの『経済地理』の5科目だけだったのである。
成績は間違いなく『悪かった』ので悪びれることなく、
『会社の仕事は他人に負けずにやれると思います』と言い切ったのだが、
『この一言』は在職中忘れたことはなかったのである。
総務部長だった岩城さんが『ところで君は野球をやってたな』と
助け舟を出して頂いてからはどんどん話が弾んで、
面接時間は他の人の倍ほどになったのである。
私は砂野仁社長のコネだったのだが、
その砂野さんからも『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。
私自身は人生で『緊張した経験』が殆どなくて、
というより『全くなかった』と言っていいのである。
この面接も緊張などは全くせずに『雑談の感じ』で、
普通に自分の想い通りに喋れたのだが、そんな性格かなと思っている。
或は野球というスポーツは団体競技なのだが、
『打席に立って投手に対する』という個人が緊張する場面もあるので鍛えられたのか、
どんな場面でも緊張しなくなってしまったようにも思うのである。
★川崎航空機工業は戦前からの会社なのだが、
軍需工場だったということで戦後の中断があり、再開されたばかりの若い?会社だった。
戦後各地に分散していた会社が明石に集結したばかりで、
あまり旧い方はおられなかったし、
雰囲気も非常に自由で何でもやれるようなところがあった。
これは入社したころの珍しい写真である。
まだ建物も新しく建ったばかりで、勿論単車工場などは建っていない。
当時所有していた土地はこの写真の殆どがそうで、
今の2倍ほどもあったのだが、
売却した土地は街に変貌して
現在はこのように周囲も新しい街になっている。
入社して配属された部署が『財産課』で会社の財産管理をしていたので、
土地のことなども何となく解っているのである。
ただ、会社再開されたばかりで、いろんな資料なども整っていなくて、
土地の管理なども出来ておらず、
会社の土地を地域の人たちが戦後の食糧難から畑にしていたりしたのである。
★ 財産物件の項目には『土地・建物』や『機械・工具』『工具器具備品』『車輌運搬具』などいろいろあるのだが、
その担当分けをした時に机や椅子、自転車などは新人でも解り易いだろうということで、
私は『工具器具備品と車輌運搬具』の担当になったのである。
確かにこの当時は会社も出来たばかりで、営業収入の不足分は戦前からあった膨大な機械類の処分などで補っていて、
財産課の売り上げ収入がある意味経営を支えていたようなところもあったそんな時代だった。
未だ机や椅子や自転車なども、誰もがちょっとでも『いいものを欲しがる』そんな時代で、
新人ながらその配分権を持っていたので、工場全体に直ぐ『顔が売れたり』したのである。
ただ財産課は毎期決算期には『財産物件の償却計算』をしなければならないのだが、
その計算はこんな手動の『タイガー計算機』を使っての計算なのである。
ちょうどジェットエンジン工場が出来たばかりのころで、
通常財産物件は1万円以上なのだが、
新工場は300円以上を『財産物件』にすることが認められていて、
工具器具備品勘定には極端に言うと『すだれやバケツ類』までが財産物件に計上されていたので、その数がべらぼうに多いのである。
従って償却計算は金額は小さいのだが、計算する手間は課の中でも極端に多くて、
新人ながら私の下には女子の部下が二人も付いていたりしたのだが、
それでも決算時期はめちゃくちゃ忙しくて大変だったのである。
そんなことで2年目までは残業して計算機を回していたのだが、
世の中にも『機械化』という発想が出始めたころで、
3年目には『償却計算の機械化』の検討を始めたのである。
世の中の『機械化の器具』なども検討したのだが、
明石工場のジェットエンジン部門は米空軍のジェットエンジンのオーバーホルをやっていて、
当時すでにIBMの器械がありIBM室もあったので、
そのIBMが使えないかと検討に入ると『使えそうなのである』
そこでIBM室の久森君と組んで、会社で初めての『民需のIBM使用』に
挑戦したのである。
これがその時の『パンチカード』である。
IBMと言っても未だ『パンチカードシステム』の時代で、
1枚のカードの桁数は120桁だけだから、財産物件名のコード化を入れて
桁数120桁の中に納まるような検討が必要で、
そのためのコード化などなかなか大変だったのである。
まだ会社の中でもどこも『IBM』など使っていなかった初めてのことで、
『財産物件の償却化』だからと本社も岐阜製作所も巻き込んでの
『全社統一システム』を目論んだのである。
その償却計算のIBM化は1年がかりで完成し、
従来の償却計算係の人員は要らなくなって、
私は財産課から新しくできた
単車営業に異動することになるのだが、よく頑張ったものである。
日本には一般にはIBMがなかったし、IBMという会社もなかった時代なのである。
日本にIBMが入ってきたのは東京オリンピックの頃だから、
それより10年も前の話なのである。
入社3年目の新人だったが、先輩方が経験のないことをやったので、
私は全く先輩方からの指示など殆どない『新入社員時代』だったし、
それ以降も『新しいこと』は『アイツに任せば何とかする』と思われるようになってしまって、
それ以降もホントに全く新しいことばかりが続くのである。
● 財産課の後は、新しく出来た『単車営業課』
● その後は新しい『広告宣伝課』が3年
● さらに東北仙台での『新しい仙台事務所の創設』
● 大阪に異動して業界で初めての『特約店制度』
● 川重に復帰してからは、『CKDの市場開発プロジェクト室創設』
● ハーレーのダンピング対策としての『新カワ販プロジェクト』
と全く引き継ぎのない新しい仕事の連続だったのである。
それは最初の財産課での『工具器具備品担当』から、
そんな道が拓けて行ったような気がするのである。