カワサキの単車事業のスタート時代 その5 自分史
投稿者 : rfuruya
★広告宣伝課1年目の昭和39年(1964)の日記を読み返してみた。
新聞・テレビはやれなかったが、いろいろ頑張っている。
初出の日に発動機からの単車分離の発表があった。
どうやら単車らしい。
1億を超える広告予算があることをどこで嗅ぎつけたのか、
広告代理店の来訪が相次いでいる。
1月末には、前回紹介した『広告代理店選定基準15項目』を小野田滋郎さんと終日検討している。
3月の日記にこのような記述がある。
『1人でやる仕事の量は知れてるが、発想・企画には制限がない。
広告宣伝課に来て、いろいろ考えた。
入社以来こんなに考えた1ヶ月はなかった』
初めて出来た広告宣伝課・1億3000万円の予算をぺいぺいの私に任された。
本社開発費の大金ということで、報告先は直接『岩城良三事業本部長だった』
岩城さんはなかなか厳しくて、よく怒られたりもしたが、
怒られてもすっきりする『気持ちのいい怒り方』だった。
その反面、『係長も課長も置かない』ということで100%任されていたのである。
広告宣伝課が川崎航空機に移り、カワサキ自販の従業員も吸収ということになって、
カワサキ自販の広告宣伝課長だった小野田滋郎さんは3月末で辞められた。
その送別会の席上小野田さんが私に贈ってくれた言葉、
『毀誉褒貶は忘れよ。雑音に耳を貸すな!』
その後ずっとそれは守った現役生活だった。
★この年4月初めてのモトクロスを朝霧高原で見たのだが、
残念ながら雨で1日で中止になってしまった。
モトクロスの現場はこの年9月の山梨モトクロスが初めてで、
製造部にいた田崎雅元さんと二人での現場管理で出張した。
その頃はまだレースの実戦は三橋実が監督をやっていたのである。
『よく集まったものだ。
事務局発表35000人釜無川の堤防1kmが人で埋まった』と書いている。
この時初めて『85J1のレーサー』が登場した。
『カワサキ85J1 Wiki』にはこのような記述がある。
『カワサキが1960年代の最新技術であったロータリーディスクバルブ吸入方式を採用。
デビュー前のモトクロスレースにおいてもブリヂストンやスズキを相手に
上位を独占するなど、性能の高さを遺憾なく発揮し、
カワサキ車として初めてのバックオーダーをかかえるほどの人気を博した。』
これがその時の山梨モトクロスで、三吉一行が優勝した。
★いろんなことをやっていて、『85J1は富士登山にも成功している』
これは当時のオートバイ誌の記事である。
これは福田泰秀くん以下の個人の企画なのだが、
『富士登山に成功して写真を撮ってきたら、
費用を負担してあげる』ということになっていて、
大成功だったので、こんな広告に使わせてもらっている。
因みに『福田泰秀くん』は、
一番最初にカワサキに単車営業課が出来たときの
『3人のサービスマン』の一人で、
私と一緒に『単車営業を立ち上げた一人』なのである。
★ホントにいろいろとオモシロいことをやっていて、
日活との映画のタイアップで、
幾つもの映画にカワサキの二輪車が登場もするのだが、
明石日活に挨拶に来ていた当時トップスターで人気絶頂の浜田光男を
明石工場に連れだして塚本本部長の対談をセットし、
バイクに乗れるというものだからテストコースで乗せたのだが、
『浜田光男が来ている』とニュースが伝わって、
彼を見ようと女子たちがラインを離れて、
発動機の製造ラインがが止まってしまったりして、勤労部長に怒られたりした。
それくらいの人気スターだったのである。
★この年の8月には『源平芸能合戦』に『川崎航空機対三洋電機』で出演している。
『源平芸能合戦』は、当時TBSで放送されていた人気テレビ番組で
いま検索してもWikipedia にこのように現れるのである。
ことの始まりは毎日広告がやってきて、
『三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、
上司の苧野さんに相談すると『出てみるか』と仰るので、
出ることにしたのだが、これからだ大変だったのである。
『4種目の出し物』は、
● 当時抜群だった明石工場のコーラスと、
● 手塚部長の剣舞、
● 岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは直ぐ決まったのだが、
あとの一種目がどうにもならないのである。
困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業にでも頼んでみるか』ということになって、
専門の演出家がやってきて、
当時アポロの月へのロケットが話題になっていたこととの関連で、
●『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
その演技指導なども本格的にやったのである。
これは『吉本興業の専門家の発想』だから本格的な出し物になったのである。
『タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変だったのである。
更に岩城さんは『うちは芸人を飼ってるわけではないから芸にに負けても応援は負けるな』と大応援団を結成して、
連日の練習が続いて『その残業代もパンなども出してやれ』と仰ってどんどん大きくなっていくのである。
この応援団を纏めてくれたのが元川重社長の若い頃の田崎雅元さんなのである。
それにフラダンスをしてくれた4人の女性を口説いくれたのも田崎さんである。
彼はよほど印象に残っているのか、『芸能源平合戦』の話題は田崎さんとの会話の中には何度も登場するのである。
本番当日の三洋電機との対戦は、
普通には出ない100点以上の高得点107-105点の大接戦だったが
『本場淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に惜しくも敗れたのである。
本番前の応援合戦の練習では、
練習の成果もあって『圧倒的によかった』と思ったのだが、
テレビの画面になってみると、
三洋電機の応援席の階段を縦に使って女の子が踊っている画面の方が
揃っていなくても派手で印象深く、
完全に『テレビを熟知』した三洋電機に名を成さしめたのである。
当時、いろんなイベントに拘わったが、『源平芸能合戦』は大変だったと
一番印象に残っているイベントなのである。
岩城良三本部長には、いろんなことでお世話になったが、
一番密接に指示も受け一緒に動いたのはこの『源平芸能合戦』なのである。
出演前日には毎日放送から担当者を呼んで練習を見て貰ったりしたので、
『こんなことまでした会社は初めて』と驚いていたのである。
さらに『みんなよくやったので全員に記念品を』とボールペンを贈ることにしたのである。
このイベントに関わった総勢は250名、当日はバス2台で現場に参上したのである。
『タダでⅠ時間番組に出れる』と気軽に出演を引き受けたのだが・・・・
まあこんなところも『カワサキらしい』のかも知れない。
私のカワサキでのイベント、第1発目の懐かしい想い出なのである。
★いろんなことがあった広告宣伝担当のスタート時期のことである。
私も若かったが、単車事業全体が若くて
活気のあったいい時代であった。
やっとアメリカ市場に進出しようか?
という機運が出始めたころの『カワサキ』なのである。
みんな『素人の集まり』だったからオモシロかったのかも知れない。