カワサキオートバイ販売出向の10年間 その3 自分史
投稿者 : rfuruya
★ 仙台事務所を開設し、事務所長として東北6県の代理店との取引を総括していたのだが、
東北6県には10店以上の代理店があったのだが、
メーカーに協力的で数を沢山売ろうとする代理店ほど資金繰りが苦しくて、
その経営はムツカシイという状態だったが、
東北6県で年8000台ほどの販売規模で、カワサキの最有力市場ではあったのである。
そんな環境の中で新しく創られた『仙台事務所』だったのだが、
その機能をどのようなものにすべきか? いろいろ考えて代理店の在庫負担の軽減のためにも、
仙台事務所の第一の機能を『倉庫機能』として東北6県への新物流形態を考えたのである。
従って開設された『仙台事務所』は事務所はほんのわずかで、その殆どを倉庫とし、仙台から小型トラックによる頻繁な物流としたのである。
当時は田舎だったが、今では町の中に位置している。
★東北6県は岩手県が日本一の広さで縦が200キロ横が100キロあるのだが、
ご覧いただいても解るように、宮城県を除いては大きな県ばかりなのである。
結構山坂が多くて、登坂力の強いカワサキのバイクが好まれたのである。
当時は二輪専門店などではなくて、
東北の1000店もの自転車屋にバイクを委託する『委託販売』の時代で、
そんな地方の販売店訪問を代理店の社長さんと一緒に訪問することが多かったので、
東北の道は、東北の人より詳しくなったかも知れない。
その距離も長くて、仙台から盛岡も、盛岡から青森も隣の県だが200キロもある。
神戸から名古屋までが200キロだから、
関西なら兵庫・大阪・京都・滋賀・岐阜県を通ってやっと愛知の名古屋なのである。
★ホントにいろんなことを経験したのだが、
一番勉強したのは資金繰りというか経営のバランスシートかも知れない。
それはいろんな理由があるのだが、『勉強せざるを得なかった環境』だったのである。
●直接の上司であった北日本営業部長の宮川さんは元々は『経理部長』だったし、カワ販の社長になられた田中誠さんは元川崎航空機の『資金部長』なのである。
●そして代理店の経営が思わしくないので、資金繰りが大変で、その対策が大きな仕事の一部でもあった。
●代理店の社長と一緒に地元銀行にもご一緒する機会も多かったのだが、
それは『メーカー保証』があるので銀行は融資をしてくれるので、
『メーカ社員の私』がご一緒することがMUSTなのである。
そして、その時に説明するのは資金繰りやバランスシートなのである。
非常に不思議に思ったのは、その時提出する事業計画やバランスシートは
赤字ではなく、黒字に修正されていたりした。
銀行はそんな資料は『建前』で、『川崎航空機のメーカー保証』で融資に応じていたように思う。
●兎に角、販売もさることながら『貸借対照表』とはご縁が深かったし、
代理店の経営で販売増加も勿論大事なのだが、赤字対策には『営業内』よりは『営業外対策』の方が肝心なのである
私は神戸商大卒業なのだが、大学では『簿記は取らずに卒業』していて、
全く知識はなかったのだが、この東北の4年間で実地に勉強して身に付いていて、
後の『カワサキの二輪事業の経営危機対策』にも自信を持って当たれたのはこの『東北での経験』がベースなのである。
★ 勿論、販売対策も熱心に推進した。
当時の主力のクルマは125B1や
ちょっとスポーツタイプのC2SSだが、
このC2SSは全国でも群を抜いて東北がその販売台数を誇ったのである。
当時、全国で一番『モトクロス』が盛んな地域が東北で、
前任がレース担当だったものだから、レースチームには顔が利いて
山本隆・岡部能夫・梅津次郎・歳森康師・星野一義というカワサキ最強のメンバーたちや、
ノービスでは清原明彦・従野孝司がモトクロスライダーとして、
よく東北に来てくれたのである。
★この東北仙台での4年間は学んだことばかりの時代で、
その販売実績は東北が日本一を続けたのだが、それは仙台事務所が売ったのではなくて、
各地の代理店が販売してくれたお陰なのである。
中でも久保克夫社長が率いる岩手カワサキは全国一の実績を誇っていたのである。
久保さん率いる岩手の販売店も特に飛び抜けた店はないし、従業員も大学出など一人もいなくて、トップセールスの山本君は中学卒なのである。
何が岩手を日本一の代理店にしているのか?
そこには久保さん独特のリーダーシップと、非常に高度に仕組まれた経営システムと、特に何を言うではないのだが販売店から絶大な信頼を得ている『久保さんの人柄』かなと思った。
運転免許を持たない久保さんとは私の運転で岩手の販売店をよく回ったものだが、一度も久保さんの口から『売ってください』などと言う言葉は聞かれなかったのである。
私の人生で一番多くを学んだのは久保克夫さんからだと思っていて、そういう意味では『恩師』なのである。
『田舎なれども南部の国は西も東も金の山』と唄われる『南部牛追い歌』
「南部の国」とは、安土桃山時代に豊臣秀吉から公認された東北地方の南部藩のことで、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっているのだが、
久保さんは南部の方で、こよなく『南部』を愛されていたのが印象に残っている。
当時はまだ県よりは、昔の藩単位でいろんなことが考えられていて、
八戸などは青森だが何となく南部だったし、
実際青森カワサキの販売店会は『南部カワサキ会』と『津軽カワサキ会』の二つに分かれていて、まだ『青森カワサキ会』としては統一することが出来なかったような時代であった。
★当時の二輪業界はまだ『本田宗一郎さんが健在』で、
日本国内もカブという50ccのモペットを中心に、
日本国内もカブという50ccのモペットを中心に、
全国の自転車屋5万店に『委託販売』という独特の取引形態だったのだが、
一方では世界のGPレースにも参加、鈴鹿サーキットの建設など、非常に先進的な事業展開をしたので、
三菱重工業・富士重・トーハツ・BSといった大企業も当時は業界の中にいたのだが、浜松勢の身軽な展開に『ツイて行けず』に脱落していったのである。
そんな中で、なぜカワサキだけが残ったのか?
誤解を恐れずに持論を申し上げると
● カワサキは最前線の販売を『川崎航空機の人たちがやらなかったからである』メイハツやメグロの人たちや、地方代理店の人たちは大企業の従業員にない柔軟性みたいなものを持っている。
● 国内の第一線を担当してくれたのは、『メイハツ』や『メグロ』の人たちだし、展開した販売網もすべて『メイハツ・メグロ』の代理店だった。
● 国内の第一線を担当してくれたのは、『メイハツ』や『メグロ』の人たちだし、展開した販売網もすべて『メイハツ・メグロ』の代理店だった。
そんな実用車の時代に『カワサキの二輪事業を支えた』のは、東北や九州の代理店だったのである。
そんな時代に30代の若さで私が、銀行の支店長さんや、代理店の社長さん方と親しくお付きあいが出来たのは、
東北という『地方』では『川崎航空機というメーカー』の存在が大きかったし、
地方の販売店を訪ねても代理店の社長さんは私を『メーカーの人』と紹介して頂いて、それが結構『効果がある』のである。
それだけ東北という地域の方たちが純真だったのかも知れない。
★この東北・仙台時代は月の殆どを東北6県を走り回ていたのだが、
当時の道は4号線や6号線などの主幹道路を除いては、
県を越える山道さえも『砂利道』で、そんな峠越えの道はむしろ雪が降った冬の方が走り易かったりしたのである。
当時、英国は殆ど100%の舗装率だと聞いて、
日本もそんなことになるのだろうか?とホントにそう思っていたのである。
昨今のテレビである山奥の『ポツンと一軒家』に行く細い山道でさえ
舗装はされていて、いつも『東北の山越え道』を懐かしく思い出すのである。
こんなことを言っても、何人の方が信用してくれるだろうか?
日本もホントに立派になったものである。
そんな東北仙台事務所長としての4年間だったのだが、
ようやく時代は『中大型のスポーツ車』への時代へと移りはじめて、
私も仙台から大阪へと異動になるのである。