7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略 その1
投稿者 : rfuruya
★ 平成3年(1991)4月に川崎重工業・CP事業本部が制作した
『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ戦略』と題した冊子は、
私以下当時の国内販社の3人の担当者の社内での講演内容を記録したものである。
相当数創られて当時の川崎重工の社長以下役員全員にも配られ、
英文にも翻訳されて海外販社にも配布されたりしたのである。
★ 1988年10月に、私は当時の髙橋鐵郎本部長から国内市場での『7万台の販売目標』を与えられ、
当時のカワサキオートバイ販売に専務として出向することとなったのである。
台数的にはとてつもない目標だったのだが、
3年目の4月には『ほぼ目標の達成』が見込まれるという状況になって、
事業本部の課長以上の幹部に対し講演会という形で、
その対策内容の発表を求められたのである。
この3年間は私の現役生活の中で『最も頑張った時期』であったのは間違いないのだが、
そこに盛られた政策は、全く『差別化された』私特有のもので、
それらを実行してくれたのはグループの部下たちだが、
基本的な発想は企画・営業部門・末端市場を経験した私自身のソフトの集大成と言えるもので、全く私独自の発想なのである。
冒頭に書かれた紹介文である。
今回の『自分史』はこの冊子の紹介を中心に展開したいので、
極力冊子の中の文章をご紹介したいので、それをお読み頂きたいのである。
これは私自身の『マーケッテングの哲学』でもあり
その殆どの部分は、末端市場対応する『ソフト戦略』で、
副題にもあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』という
『新しいカワサキのブランド創造』なのである。
★ この会の冒頭髙橋鐵郎本部長がこれもぶっつけ本番でご挨拶をされているのだが、私も高橋さんとは永年コンビを組んできたが、
どんな大きな会合でも、話す内容を書面にしたりしたことはない。
常にその場で、『自分の言葉』で話すのが常だったのである。
この会合でも、突然のこれは私のお願いだったと思うのだが、
このようなご挨拶をされたのである。
お読み頂けば解ると思うが、流石に上手く話されている。
★この冊子の中で、私以下が語っていることは、
私自身の『自分史』そのものでもあるとも思うので、
数回に亘って、この冊子の内容のご紹介をしてみたい。
私に与えられた『7万台の目標』は、
普通一般の販売努力ではとても達成できないようなそんな数値なのである。
目標を与えられた時点では、二輪車が約4万台、JSが3000台の実力なのだが、
それを合計7万台を目標に、3年目でもう一息のところまで来ていて、
この年の6月に『目標7万台』を達成しているのである。
★ 戦略立案の基礎は『正確な現状認識』がなければならない。
まず博報堂に依頼して『カワサキの現状のイメージ調査』を行った。
イメージとは『他人の評価』なのだが、
いろんな活動や、情報発信を積極的にやらない限り、
『イメージは創造されない』のである。
これがスタート時点の88年10月の二輪業界各社のイメージである。
ホンダ・ヤマハに比べて、カワサキのイメージ総量が小さいのが、
まず、問題なのである。
事業の健全経営を目標にするのならそれも許されるのだが、
『7万台の目標達成』という業容の拡大を図るためには、
『カワサキのイメージ総量の増大』が必須の課題だと思って
その対策からスタートするのである。
★ こんな『市場調査』は結構金は掛かるので、
まず、普通の人はこんなアプローチはしないのだが、
こんなところからスタートするのが、私流なのである。
そんなことで1988年10月に就任しての最初の1年間は、
こんな『カワサキのイメージの総量拡大策』に集中している。
● 88年10月 ファクトリOB会 レース活動の復活宣言
博報堂のイメージ調査
● 88年11月 グループの対策基本方針 本部長了承
● 88年12月 新KAZE基本方針 会員カードJCBと基本契約
● 89年1月 カワサキジェットスキー販売の社長に就任
● 89年2月 新ソフト会社KSS設立を川重経営会議で承認
● 89年3月 鈴鹿2&4宗和3位、大分県サーキットSPA直入着工
● 89年4月 遊び会社ケイスポーツシステムスタート
ルマン24時間、多田・宗和・塚本 3位入賞
● 89年5月 ゼファー発売、
● 89年6月 全国各販売会社訪問開始
● 89年7月 鈴鹿6時間耐久、鶴田・北川優勝、藤坂・林2位
鈴鹿4時間耐久、髙橋優勝(BEET)
● 89年8月 国内カワ販の活動内容を大庭社長以下全役員に発表
ゼファー好調で雑誌記事など多数、
● 89年9月 地方販社の構造計画、西日本からスタート
ジェットスキー関連業界、ヤマハさんとの対応
● 89年10月 ジェットスキー販売店のアメリカ市場見学旅行
● 89年11月 阪神ライデイングスクール有馬社長と自動車学校話スタート
● 89年12月 新宿ヒルトンで 販売店ARK構想説明
岡山ショールーム構想スタート
30年経った今でもFacebook などでお付き合いのあるライダーたちの
名前が出てきたりする。
この1年ざっとこんなことだった。
販売も好調であったし、川重社長から説明会を求められるなど、
社内でも話題を集めたし、これくらい積極的に動くと、
『カワサキのイメージ』も1年でこのように変わったのである。
積極的に活動し広報した成果で『イメージ総量の増大』が実現した。
『レースに弱く』『広告のセンスがなく』『常にチャレンジしない』カワサキが様変わりして、そこそこの実績を残したし、
『玄人受け』などの従来からのいいイメージもさらに大きくなったのである。
★ 一番大きかったのは4月スタートした『遊びの新ソフト会社KSS』である。
『遊び半分ではいい遊びは出来ない』とホントに真剣に取り組んだのである。
この新会社KSSは、1990年代のカワサキの大躍進の中核的存在となったのである。
こんなソフト会社は川﨑重工業の中でも初めてのことなのだが、
この新会社の社長は私が兼務して、ここでは陣頭指揮を採ったので、
KAZE活動を中心に、レース活動、SPA直入運営などの新事業を、
1年目で軌道に乗せることが出来たのである。
★その後も、『ソフト分野の活動並びに仕組みの創造』を中心の活動とし、
『遊んでいても自然に売れる仕組みの構築』を目指したので、
この川崎重工の人たちへの講演会の講師のメンバーも、
私と、
ケイスポーツシステムの南常務、
スポーツ推進部の重本部長、
広告宣伝の小林課長の4人で、
事前打ち合わせなど全くなく『ぶっつけ本番』でやったのである。
★ 次回から何回かに分けてこの講演会での話した内容をご紹介してみたい。
それがこの時代の私の『自分史』に代わるものだと思っているし、
87歳になった現在も、その延長線上を走っていると言っていい。
因みに、この小林広告宣伝課長は、
Facebookで今も、毎日親しくお付き合いのある『Shigeru Kobayashi』くんである。
彼がどんなことを喋ってるかも、ご紹介するので
楽しみに、ご期待ください。