カワサキジェットスキー物語 14
★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。
今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。
●その一つがこの写真である。
1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。
この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。
●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。
今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである
● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。
●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。
●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。
●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。
★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。
KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。
このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。
これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。
モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。
そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。
これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。
こんな感じでその規模は、壮大だったのである。
これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、
レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。
ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。
そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。
以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。
そんな観点から当時の写真をご覧になってください。
私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。
琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。
当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。
金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。
ちょっと、向うに見えてるのは私。
田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。
★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。
石川テレビの中継もある、そんな大会だった。
ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。
1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。
★そして最後の写真は、
1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。
この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである。
そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。
最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。
この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。
ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。