カワサキジェットスキー物語 2
★何となくスタートした『カワサキジェットスキー物語』なのだが、ひょっとしたら結構長く続くかも知れない。
カワサキの二輪関連については、いろいろな記事も多いのだが、ジェットスキーについては、そんなに多くの記事が載っていない。Googleで『カワサキ二輪車の歴史』と『カワサキジェットスキーの歴史』と検索するとその差は歴然なのである。
何故かな?と思うのだが、多分ジェットスキーについては、特にその初期のことなど『語れる人』が極端に少ないからだと思う。
『ジェットスキーについて語れる人』と言えば、今回この物語の発起人のような『福井昇・田崎雅元・私』それに具体的にヨーロッパ・国内・JJSBAを創っていった鶴谷将俊さんあたりが発信しない限りいつまで経っても、世の中には出ないのかな?と思ってしまうのである。
今回はひょんなことから『この物語』はスタートするのだが、その核になった3人は『福井昇・田崎雅元・私』なのである。
福井昇さんは。川崎重工業出身だが、川重の職位は単なる一係員だった。田﨑雅元さんは川崎重工業の元社長・会長を務めたトップなのだが、この二人を繋いで、『何かを仕掛ける』のは今回が初めてではなくて、実は2回目なのである。
今はもうすっかり定着して神戸市と川崎重工の名物イベントになっている『ミニ鉄道フェスタ』だが、このイベントの発起人は、福井昇くんなのである。
その案がなかなかオモシロそうなので、当時川崎重工の会長だった田崎雅元さんに繋いだのが私、川重の会長室を訪ねて最上階の専用レストランで豪華なランチをご馳走になったのが、2008年1月30日のことだから10年程前の話なのだが、鉄道マニアでもある福井昇くんの案を気に入って、翌日1月31日に神戸副市長を田崎さんと私の二人で訪ねて『メリケンパークの使用』をお願いして、このプロジェクトは、その年の秋に第一回が立ち上がったのである。
スタートしてから3年程軌道に乗るまでは、私も福井くんも積極的にメンバーの核としてお手伝いしたし、田崎さんも熱心に参加して頂いたのである。
言いだしべーは福井昇くん、イベントとして具体的に軌道に乗せたのは、写真のこの3人なのかも知れない。
一番後ろに乗ってるのは、『500メートルのレール』を作ってくれた古橋賢一さんなのである。
★そんなこともあったのだが、『福井昇・田崎雅元・私』の『トリオでの企画・実行』は今回で2回目なのである。
一係員であった福井昇くんの案でも、『オモシロい』となれば、素直に受けてすぐTOPが動く身の軽さみたいなのが、カワサキの単車の持ち味だし、良さである。ちなみにこの舞台にもなった『カワサキワールド』は田崎さんの現役社長時代の産物なのである。
今回の『カワサキジェットスキー物語』も、田崎さんから私へのメールからのスタートなのだが、私は昨日のうちに『福井昇』くんに繋いで、当時の事柄を時系列に並べて貰ったりして、『これはイケル』というような確かな感触を得たので、スタートしたのである。
田崎さんからは『カワサキジェットスキー物語、面白くなりそうですね』というメッセージを頂いたりしてるので、ホントにオモシロいものに仕上げたいと思っている。
★スタートしてから『走りながら考える』これが私のやり方なのである。
今まで殆ど誰も語らなかった『カワサキジェットスキーの物語』それを語ることができる、現存するメンバーは、『福井昇・田崎雅元・私』とヨーロッパ・国内市場とレース関連、JJSBAを先頭に立って引っ張ってくれた鶴谷将俊さんの4人だと言ってもいい。
そんな鶴谷さんの写真、昨日は田崎さんから送って頂いた。
そんなことで、スタートすることにする。
カワサキの当時の『事業展開のやり方』がこの『ジェットスキーの事業展開』で具現されたと言ってもいい。
それはどんな展開であったのか?
『カワサキジェットスキー物語』どんな展開になるのか?
ご期待頂いていいと思います。
昨日に続いての投稿だが、以降はもう少しゆっくりしたペースで頑張ってみたいと思っている。