カワサキの部品が来なかった時代
カワサキの部品が来なかった時代
★つい先日、『男・カワサキ』についての感想をアップしたら、FBで沢山のコメントを頂いたのだが、カワサキの昔話として『カワサキの部品は来なかった』という話が幾つかあった。
『武骨なW1が男のイメージかと思います、それと、ぶっ飛んでいたマッハⅢ、この2モデルは強烈な個性を持っていました。
70年代初頭、私の郷里の千葉県東部では、部品が来ないのは通説でした。販売店も、部品がなかなか来ないですよと、ことわりを入れて販売していました。 Z2、レインボーのSSの頃には、大分、改善されましたが・・・』『80年代初めくらいまでは部品が入りにくかったというところもあります。カワサキに乗る=覚悟がいるという風潮がありました。』
その通りなのである。
私自身は非常に悪かったカワサキの部品補給について、その改善対策システムを創った張本人なので当時のカワサキの部品補給がなぜ悪かったのか・それをどのように対策したのか・コメントにあるようにZ2以降は非常に改善された筈なのである。
★なぜカワサキの部品補給はそんなに悪かったのか。
● ホンダ・スズキ・ヤマハに比して、当時のカワサキの50ccなど比較できないほどの少量販売だった。
● それなのに販売店の数だけは、委託販売で結構な店数を持っていたし、各地の営業所の数も他社と同じように展開していた。
● そんな営業所が部品補給が悪いので、みんな部品在庫を持ちたがるのである。
● 10万台以上を売る他社のモペットに比べて、数千台のカワサキの50ccだから、メーカーはそれに見合う部品しか持っていないのに、営業所が部品在庫してしまうものだから、日本のどこかに部品はあるのだが、千葉県にはないという状況になってしまうのである。
● 部品をちゃんと補給できるようにするとしたら、生産台数と同じくらいの部品在庫を持たないとちゃんとした供給にならないのである。
●この辺りのことが、当時のカワサキの二輪事業担当は素人ばかりだから、末端の状況など全く解っていなかったのである。
★そんな時代、昭和45年(1970)大阪万博の年に私は第1線の大阪営業所長になったのである。
●はじめての経験だったのだが、すぐ部品の問題に直面した。浜寺モータースのおやじさんにこっぴどく怒られたのである。
●車の修理をする時に仮に10点の部品が必要で営業所に注文すると5点はすぐ来る。然し残りの3点は半月も掛かる。さらに残りの2点はいつまで経っても来ない。修理は10点揃わぬと完成しない。完成していないのに最初の5点の部品の請求書だけはすぐ来る。
●お客には修理が完成しないとお金などもらえないのだ。そんな部品の請求書の金など払えると思っているのか。
というのである。確かに仰る通りなのである。
★ その対策をいろいろ私なりに考えた。
● これは営業所が部品倉庫を持っているからダメなのだ。営業所で幾ら在庫を増やしたとしても、10点が揃うように持つことは不可能に近い。
●営業所の部品庫を無くして、明石の本部に部品庫を持ち出先は一切部品を持たないようにして、注文があったら、そのまま明石に連絡してそこから送って貰えば、仮に何日か掛かっても現状よりは改善されるはずである。
● こういう仮説を立てて、『大阪営業所の部品倉庫を廃止し、明石に集中して部品を持つようなシステム』をスタートさせるのに約半年かかったが、明石サイドでは当時の苧野専務が私の案に乗って下さってすぐ動いて頂けたのである。
●1978年Z2が発売される3年後には、明石に部品倉庫もできて、第1線で部品を持たない営業所の注文に対しては、すべて明石から発送するシステムが動き出したのである。
● 今の宅急便のシステムがスタートしたのが1976年頃からで、この新しい『宅急便システム』に乗せたのでカワサキの部品は全国どこにでも2日後には配送されるそんな状態になったのである。
★この部品配送システムは、カワサキが一番早かったはずである。
1978年には全国に先駆けて近畿と名古屋で中大型車を売る『特約店制度』を立ち上げ販売店の数を絞り各営業所の部品在庫はゼロにして特約店からの部品注文は明石に繋ぎ、明石の部品倉庫から『宅急便システム』を使って発送するそんな新しい体制になったのである。
そんなこともあって、カワサキの宅急便の価格は、ホントに宅急便システムがスタートした時期からのおつき合いだったので、今はどうか解らぬが、ある時期までは他がびっくりするほどの『低価格』だったのである。
この部品システムは、こんな大阪の浜寺モータースのおやじさんに怒られたのが契機なのだが、その親父さんとはあの有名なレースライダー・徳野政樹・徳野博人の兄弟のおやじさんなのである。
当時はもう一人3兄弟がレースをしていて、未だファクトリライダーなどにはなるずっと前のことなのだが、『徳野3兄弟』はおやじさんの自慢の種だったのである。
あの時徳野のおやじさんが、あんなにこっぴどく私に怒らなかったら、カワサキの部品配送システムはできていないかも知れない。
『カワサキの部品補給は悪い』という伝説は延々と続いていたかも知れないのである。
★ この部品発送システムは、当時川崎が展開した『特約店制度』の実施地区営業所で順次展開していったので、1980年前半、特約店制度が全国展開されるころには、全国展開で完成したのである。
明石サイドも部品発送部門は、その後独立した部品会社になって、カワサキの部品は全国どこでも注文から2日後には届くシステムが完成したのである。
このシステム展開は『私自身の発想』で、当時のカワサキ本社を動かして展開していったプロジェクトなので、結構ちゃんと解っているのである。
『カワサキの部品供給が悪かった』というのも今ではホントに昔話なのである。