昭和29年(1954)大学3回生の年 自分史
★ 前年度の昭和28年の秋、10月20日から突然日記を書きだしたことは
前回の自分史で書いた通りである。
前年度は大学ノートに書いているのだが、この年には日記帳に記している。
前年度の秋に突然「肺浸潤」の宣告を受けたのが日記を書きだした一つの理由であったのだが、
「絶対安静」などと医者には言われたのだが、寝てたのは前年秋の10日間だけで、
その後は寝たりはしていないが、何となく気を付けた生活になっている。
この年の1月には兵庫県の高校のOB戦があって、明石高校のメンバー表の中には私の名前も載っていて、優勝候補の筆頭と書かれているのだが、
その通り1月13日にめでたく優勝を飾っている。
当時の社会人野球の花形スターが名を連ねていて、
朝日スポーツ賞に輝いた山本治さんや当時の社会人野球の日本代表の4番を打っていた大津淳さんや同期の完全試合投手溝端圭一郎ほかホントにそのまま社会人野球に出ても大丈夫だというようなメンバーだったのである。
流石にこの時期は私も野球を止めてたので名前は出ているがプレーはしていない。
こんな野球で始まった1年で、前半期は学校には行っているが
野球の練習などもやめていた。
日記にも結構病気を気にした記述も多いのだが、
8月に名古屋の中日球場で第1回の全国商大大会が開催されて、
この試合には是非参加をとマネージャーに頼まれて、ベンチワークなどをやっている。
残念ながら優勝戦で敗れたのだが、こんなことから野球を再開して
翌月の9月の合宿には参加し、来年度のチームのキャプテンに選ばれたりしている。
当時のチームは4回生は1人しかいなくて3回生の私が実質のキャプテンを務めたりしたのである。
そんなこともあって、秋のリーグの予想記事には
遊撃・古谷のカムバックで内野陣も締まりとあったりして、
近大に次いで「2位を狙う神商大」などと書かれたりしているのである。
★ そんなこともあって「肺浸潤」は完治したわけではなかったのだが、
この年の秋からはまた「野球部の生活」が復帰したのである。
私の大学での生活はこの年の前半だけが、野球からちょっと離れていたのだが、
その期間を除けば「野球漬け」の大学生活だったと言えるのかも知れない。
授業にも出てはいるが「勉強をした」と言ういう記憶はないが、
日記には授業のことも書いてはいるが、全く覚えていないのである。
そんな大学生活は、翌年の4回生、更には卒業を1年延ばした5回生と続くのである。