私の高校時代
★ 中学校は名門神戸一中に行っていたのだが、
3年生の時に男女共学になり、高校時には学区制なるものが出来て、
明石高校に転入した。
まことかウソかは解らぬが、こんなことを言う人がいる。
『これは神戸一中での天覧授業が原因である。GHQが天皇陛下が何故神戸一中に泊まられたのかを調べたら、あの学校は英才教育を行っているということが解って、それでまず男女共学にし、次いで学区制なるものを行った。』
と言うのである。
そんなことで当時の神戸高校からは明石高校に3人の生徒が転入したのである。 明石から神戸高校に通っていたのはほかにもいたのだが、それは私立の灘高校に転入したのである。
灘高には当時の神戸高校から学区制で各地の高校に行くのを嫌って、神戸高校から大量の生徒が移転したのである。
もともといい私学ではあったが『灘が文字通りの進学校』になったのはこの年以降だと言っていい。
★ 明石高校はそれなりの伝統もあるいい学校なのだが、
神戸高校に比べると授業の内容は1年ぐらい遅れていたこともあって、
転入してからは、私は殆ど勉強をする必要もなかったのである。
すぐに伝統のある明石高校野球部に入ったのだが、
その野球部は結構強くて、3年生には全日本の4番を打った大津信さん、
慶応当時朝日スポーツ賞に輝いた山本治さん、
2年生にも日本生命の最強時代の国賀・西村さんなどもいたし、
同期には『完全試合』をした溝畑圭一郎などもいた当時は兵庫県の名門校で『名門明石』と言われていた。
昭和25年(1950)の夏には甲子園にも出場した。
当時は明石市で高校は明石高校ひとつだったから、
後援会も強力で、そんなお陰で野球部は裕福だったので、
夏の予選の前の練習は校庭ではなく明石公園内の野球場での練習が主だったのである。
この明石球場は当時はひょっとしたら甲子園球場よりも格上で、
春は毎年読売巨人軍がキャンプを張っていた球場なのである。
長嶋茂雄も王貞治も入団当時の春のキャンプは明石球場だった。
因みに夏の予選は甲子園球場で行われていた。
★ 私の高校時代には父は脊髄カリエスを患ってずっと寝ていたので、
私は大学には行かずに就職するつもりだったから、殆ど勉強はせずに野球ばかりに熱中していた。
2年生の時まではサマータイムで8時半ぐらいまで明るいので練習が終わるのは9時過ぎだった。
結構な猛練習だったが、今と違ってバッテングマシンなどはない時代だから、練習の主体は守備が長くてノックで絞られたものである。
私はショートをしていたが、当時の明石の内野陣は兵庫県でもトップレベルで、殆どと言っていいくらいエラーなどした記憶がないのである。
当時のピッチャーのレベルもそんなに高くはなかったからだと思うが『三振』などもした記憶は少ないのである。
いまの時代は大谷でもよく『三振』をするのだが、
当時は打てないバッターを『三振バッター』と言っていて、
『三振』は今と違って極端に『ダメ』だったのである。
そんな野球漬けの高校時代だったのだが
高校3年生の時の1月2日に父が亡くなってしまったので、
伯父が『治療費も要らなくなったから大学へ行け』と言うのである。当時はまだ、健康保険などはなくて治療費が大変だったのである。
そんなことで、にわかに1ヶ月ほど受験勉強して神戸商大に入学したのだが、
その倍率は実に16,5倍もあって、通ることはまずないと思っていたのだが、不思議なことに入学が出来て進学することになったのである。