カワサキの二輪車の歴史について その2
2024-04-11 05:43:12 | カワサキ単車の昔話
★カワサキの二輪車の歴史・その2は
1960年。神戸製作所で二輪車の一貫生産を開始とある。
私は昭和32年4月(1957)に川崎航空機に入社したのだが、
最初の配属先は業務部財産課だった。
そこでも新しいことばかりやっていて、木製の椅子から金属製のネコスの椅子に変えたり、財産物件の償却計算を民需では初めてIBMを使ったりした。
当時はアメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールを明石工場でやっていて、明石工場にはIBMの器械装置があったのである。
日本で一般にIBMが使われ出したのは昭和40年代だから、それより10年も早い時期のことなのである。
そんな財産課にいたのだが、肺結核にかかって1年ほど入院していたのだが、その退院の時期が1961年12月で、たまたま新しく単車営業課が発足したのである。
初めてのことだからそこには誰もいなかったのだが、
『新しい仕事』なら古谷は出来るだろうと思われたのか、その単車営業課の所属になったのである。
その部門の上司は業務部時代にもいろいろお世話になった小野助治さんで、その小野助さんに『私は引っ張って』頂いたのである。
小野助治さんは、当時小野助さんと皆に呼ばれて、ホントに面倒見のいい上司だったのだが、私はその後、結婚するときは仲人をお願いしたりしたのである。
★これがきっかけで、私はその後、1999年に退職するまで、一貫して二輪事業を担当することになったのだが、
一番最初の車はニューエースとあるが、それはほんの数か月のことで、私が営業課に異動した時の車は、125ccB7とモペットM5が主力車種だったのである。
そのほかにも、井関のタフ50なども委託生産していた時代なのである。
★ 私が営業課に配属されて小野部長に最初に言われた指示は『物品税を研究してくれ』だったのである。
この125B7は出荷もしていたが、フレームに欠陥があって多くの車が返却され、明石工場は返却車の山だったのである。
私が配属されて2か月目の1962年1月の出荷台数は返却が出荷を上回って『マイナス17台の出荷』と言う信じられないことが起ったのである。
当時125cc以上のバイクは贅沢品に掛けられる『物品税』が掛けられていて、この物品税の納入は至って簡単なのだが、
返却されて治めた『物品税を戻入』して貰おうとするとこれが大変なのである。
1台1台、明石税務署の署員の実地検査があって、そこで認可されないと戻して頂けないのだが、
それは出荷当時のままと言うのが条件で、例えばメーターはゼロ出ないとダメなので、メーターの巻き戻しなどもやるという、大変な作業だったのである。
さらにこの物品税は申告税だから、若し不正があると体刑になるというムツカシイ処理で、ホントに大変だったのである。
そんな大変な時代が1年続いたのだが翌年には名車とも言われる125B8が出て、単車事業はやっと何とか軌道に乗り始めたのである。
私の単車1年目はこんな大変な時代だったのである。
いまは隆盛を極めるカワサキの単車事業だが、
スタートから10年はずっと大変な時代が続いたのである。
100社近くもあった単車の事業体がどんどん脱落して、
いまの4社体制になるのだが、浜松の3社以外に生き残ったのはカワサキだけなのである。
そんな時代をずっと一緒に過ごせたのは今となっては貴重な体験だったと言えるだろう。
私の入社当時の川崎航空機の明石工場はまだ単車工場もなくこんな状態だったのである。
この広大な土地や戦前の機械の売り食いでやっと経営を繋いだ時代で、そう言う意味でも財産課は至って貴重な部門だったのである。