明石と私
投稿者 : rfuruya
★最近になって明石が急に全国区で話題である。
人口が減少する中で「10年連続人口増」だとか
「全国戻りたい街第1位」だとかになっている。
こんなになったのは
こんな名物市長さんの功績なのか?
いろいろ言われてはいるけれど、結構なことである。
★私自身は、明石とは結構深いご縁があるから、
明石が有名になることは結構なことである。
私と明石はどんな関係があるかというと、
●ずっと昔松平家のお殿様と一緒に福井から明石にやって来たらしい
●そんなことで松平家の菩提寺・長寿院にお墓がある
●生まれ故郷もかっての武家屋敷のあった上ノ丸だが
●中学校は神戸だが、高校は明石高校だった
●高校時代は野球部で明石公園の球場で練習し
●昭和25年の夏には甲子園にも出場した
●明石は川崎航空機があったので戦時中にひどい空襲があり
●旧い明石は焼けてしまって本家も焼失してしまったが
●ご縁があって私はその川崎航空機に入社して40年もお世話になった
●川崎航空機に入社したのは伯父が明石でやっていた錦江ホテルが戦時中に軍の宿舎に接収された関係で繋がった
●今は三木に移ってきたが、年に何回かは墓参に明石を訪れている
★そんなことで私の本籍は今でも「明石市上ノ丸2丁目720番地」なのだが
今はそこには20軒以上の家が建っていてそんな番地は現存していない。
そのほんの一部だが「本家」は今でもそこにいる。
明石との関りはいろいろあるのだが、
息子は鎌倉、娘はアメリカにいて明石とは無縁なので、
明石との関りも「私の代」で終わってしまうのだろう。
そんなこともあるので想い出いっぱいの明石の写真を並べてみる。
これは私の生まれる前の写真だが、私が産まれた上ノ丸の屋敷である。
祖父も写っているが私は祖父を知らない。
この当時はここは別荘で
今の魚棚のある細工町に本宅があって、
これは伯父も父も早稲田の大学時代の写真だが、
真ん中で母に抱かれているのが私、
一番右は母の兄で国鉄スワローズの初代総監督・楠見幸信
ベーブルースと戦った当時の全日本の1番センターだったとか。
これは伯父が経ってた錦江ホテル。
明石城は錦江城と呼ばれていて「錦江」は明石を表している。
このホテルが戦時中に軍の宿舎にするということで接収された関係で
当時の川崎航空機とのご縁が出来た。
こんな旧い写真を見ると、
戦前までは、私も「ぼん」で育ったようだが、戦後に生活は一変した。
明石高校時代、よく練習した明石公園の明石球場である。
お陰様で昭和25年の夏は甲子園出場もしている。
ご縁があって川崎航空機の明石工場に40年間お世話になった。
今は三木に移ってしまったが、
年に数回は墓参に明石に行くことになっている。
いつかは私もここに戻って来て
子午線の通っているこの地で永久に眠ることになるのだろう。
いろんな意味で、私にとって「明石はなかなかいいまち」なのである。
興味深く拝読させて頂きました。半島往来期のシリーズも是非。