私の差別化された人生 雑感 その1・日記
投稿者 : rfuruya
★ 私の人生の目標は何だったのだろう?
あまりそれを意識するでもなく89年も生きてしまった。
敢えて「人生の目標は何だったのか」と考えてみると
「差別化」だったのかも知れない。
他人とはちょっと変わった「私らしい生き方」をしたいと思ったのは間違いない。
そんな「差別化された生き方」はいろいろあったのだが、
振り返って、それらを想いだして纏めてみたいなと思っている。
★ そんな中の一つに「日記」がある。
何度か書いたが、日記を書きだしたきっかけは
蒋介石(1887~1975)が30年以上も日記を書いているのはエライと
朝日新聞に載っていて「日記を書くぐらいなら自分でも出来るだろう」
とその翌日から書き出したのである。
「蒋介石は1917年からおそらく1975年4月5日に死去するまで日記を書いています」 とあったので、
私が日記を書きだした1953年は丁度36年目だったのである。
亡くなるまで58年間日記を書き続けられたのだろう。
それが1953年(昭和28年)11月8日の年末に近い時期だったので
この年はこんな大学ノートで書き出したのである。
まだ私は大学2回生の頃で、20歳だったから、69年間続いていて、
それだけで言うと蒋介石の日記より長く続いたことになる。
★ その第1日目に何と書いているのか?
ちょっと読みづらいので、写してみることにする。
平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えていないのだが、ただ単なる青春の想い出として、後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろう些細な日々の出来事をまた考え、大げさに言えば思想というものを、つたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
日記というものを記そうと思いたったのは、これが初めてである。そしてその生まれて初めての日記の書き出しが、肺浸潤とかいう病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうとする意志表示であると言わねばならないだろう。
健康な時には日記なんて見向きもしなかった代物である。10日間ほど寝たというだけで日記を記そうというような気持ちになるのはどういう意味を持つのだろうか?
人生50年という短いとされている期間を更に短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出てくるのであろうか?いや一日の手持ち無沙汰からかも知れない。まあ兎にも角にも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人も多く記していることではあるが、いつまで続くかが問題である。
これから先一生続いたら大したものである。2,3日で止まってしまっても又それもよかろう。身分相応に「飽き性」の自分に最適な大学ノートによってその一頁を始めることにする。
いつまでも続くことを願うや切である。
★一日目はこんな書き出しで始まっている。
当時は肺浸潤・肺結核は多くてそれで死ぬ人も多かった。
ここに書いたように、「短い人生」になるかもと思ったのも事実。
「世に名の聞こえた人」とは蒋介石のことだが、当事肺浸潤になったばかりで、10日間ほど寝込んでいたのである。
これは2回生の秋のリーグが終った時だったのだが、
3回生・4回生の時も野球を止めることなく、
キャプテンを務めたり、卒業は病気をいいことに1年延ばして野球部の監督をするなど、滅茶苦茶勝手な一般の人では考えられない人生を歩いている。
就職は伯父のツテで川崎航空機に入社したのだが、その時には肺に空洞が出来たりしてたのである。
そして入社4年目の時に1年間入院したら空洞も消え失せて元気になって、
戻って来て、その時スタートした「単車事業の営業部配属」となったのである。
この一事を見ても「普通の方」とは「差別化された」生き方である。
この時始めた日記はお陰様で、今も続いていて蒋介石の日記よりは長くなったようである。
私の生き方の幾つかを纏めてみたいのだが、
これは間違いなく「普通の方」とは一寸違った「差別化された生き方」になっているのである。
先ずはその「第1号は日記」である。
世の民の 苦難を祓う 勤皇の 譽れ高かれ 川崎重工
何事の 成るも成らぬも 為す人の 心一つと 病み人の謂い