カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス その
投稿者 : rfuruya
★ カワサキアーカイブスはこんな画面からスタートする。
手前のモペットは多分M5でバイクはB7だろう。
その後ろは、カワサキベルヘリコプターである。
カワサキの二輪事業スタートの昭和35年(1960)は
国内市場だけでその販売先はカワサキ自動車販売だった。
通称『カワサキ自販』、トヨタも『トヨタ自販』があった時代である。
そしてすぐ私のインタビューに入り、
私は、昭和32年(1957)4月、川崎航空機工業に入社するのだが、
まず入社動機、なぜ川崎航空機に入ったのかという言う質問で始まり、
その答えが結構長く続くのである。
『なぜ、川崎航空機に入ったのか?』と言われると、
当時の副社長だった砂野仁さんが『入れたるわ』と仰ったので、
それに従って『入れて頂いた』のである。
その経緯はいろいろあって、
私の祖父の話からスタートするのである。
私の祖父古谷虎雄は私が産まれた時にはもうこの世にはいなかったが、
いろんな方が『偉かったよ』と言われる話を聞いて育った。
ネットにもこのように現れたりする。
そんな話をしているのでこんな画面が現れたりするのである。
祖父が亡くなってその後を継いだ伯父古谷修一が南鮮電力のオーナー副社長をしていて、
同時に明石では『錦江ホテル』の経営もしていたのだが、
このホテルが戦時中に、川崎航空機の明石工場に来ていた軍人の宿舎にと、
川崎航空機に接収されることになったのである。
その時の売買契約が伯父と川崎航空機の砂野仁総務部長さんとの間で締結され、
そんな関係でその後も伯父とは親交があったのである。
私は戦後朝鮮から引き揚げてきて名門と言われた神戸一中に入るのだが、
それは息子さんの砂野耕一さんが一中に行ってたこともあって、
砂野仁さんの薦めがあったからなのである。
そんな関係だったのだが、伯父が私の大学2年の時に亡くなって、
その葬儀に来られた砂野仁さんが、当時は就職難の時代でもあったので、
『もし行くところがなかったら、うちにいらっしゃい』と言って頂いたのである。
そんなことで、私は川崎航空機以外の会社の入社試験など一切受けずに、
川崎航空機に行くことに決めていたのである。
ところが、私の卒業年度の昭和31年(1956)は全くの不景気で、
砂野さんが『今年は採らぬから、もう1年大学におれ』と仰るので、
私は卒業を伸ばして、大学5回生を野球部の監督をしていたのである。
結構呑気と言えば呑気な性格で、
何でも、何とかなるだろうと思うのは若いころから同じで、
それが結構『いい運に繋がっている』という結果になっているのである。
翌年の昭和32年は様変わりの『神武景気』となって、
川崎航空機に入社することが出来たのである。
★勿論、入社試験も社長以下重役陣のおられた面接も受けたのだが、
その面接は『君は成績悪いねえ』から始まったのである。
当時の総務部長が岩城さん、人事課長が塚本さんだったのだが、
『君は成績悪いねえ』と第一声を放たれたのは、塚本さんである。
私は大学時代は全く勉強などしていなくて、野球一筋だったので、
優は体育実技・体育理論・誰にでも優をくれる中国語の1・2 と
野球部の部長の経済地理の5つだけで、可が二桁もあったのである。
『成績が悪い』のは自分でもよく解っていたので、動ずることなく、
『会社の仕事など絶対に他人に負けたりはしません』などと言ってたのだが、
岩城さんに『ところで君は野球をやってたな』と話題を振って頂いて、
あとで砂野さんから『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。
岩城さんが『野球』に話を振って頂いたのは『私が砂野さんのコネ』ということをご存知だったので、そんな配慮があったのだろうと感謝している。
ただ砂野さんは、神戸一中時代、学年の10番以内にいた私の成績はよくご存じだから『バカではない』ことはお解りだったとは思っている。
ただこの面接での『人には絶対負けません』と言い切った一言は、
現役時代ずっとアタマに残っていて、頑張り続けたのは間違いないのである。
★ そんな入社時代の話がいろいろ続いたあと、
当時の川崎航空機の社風はどうだったか?という質問があって、
『やりたいことが自由に何でもやれた』と答えているし、
事実、新入社員の1年目からホントに自由に動けたのである。
軍事会社ということで戦後の中断があって
昭和27年(1952)に分散していた幾つかの会社が集って、
再開されたばかりの若い会社だったから、
いろんなことがことがまだ整っていなかった面もあったのだと思う。
業務部財産課という地味でオモシロくないという部門に配属されたが、
すぐに財産物件の管理担当者というシステムを創って、
夫々の課の財産物件の管理をお願いしたのである。
この全事業所の管理担当者の統括が新人社員の私なので、
不思議なことに『沢山の部下?』がいるような形にもなったのである。
2年目には当時のJETエンジン部門に米軍がいて、IBMがあったので、
財産物件の償却計算のIBM化などをやっている。
これは全社でも初めてのことだったし、
日本にはまだIBMもIBMという会社もない時代のことである。
因みに、IBMが日本で一般化したのはオリンピックの頃のことだから、
その10年も前の話なのである。
ただ、当時は私だけではなくて、オモシロい方がいっぱいいた。
後、アメリカ市場を開拓し、KMCの社長をされた浜脇洋二さん、
あのZ1を創られた、大槻幸雄さんなど
当時の若い方々は、ホントにオモシロかったのである。
それにしても、お二人ともお若い。
★今でも広い明石工場だが、当時はその面積だけは今の2倍もあった。
ただ、空襲でやられてしまっていたので、こんなに空き地ばかりだったのである。
手前の広場のようなのは飛行機が飛べる滑走路なのである。
会社は苦しくて、土地や機械の『売り食い』の時代でもあったのである。
★ まずは『アーカイブス第1稿』、入社したころの川崎航空機工業である。
この頃は、まだオートバイなどは未だ造っていない。
戦前、明石工場は航空機のエンジン工場だったので、
技術屋さんの殆どが『エンジン屋』さんだったし、
そんな関係で、ジェットエンジン工場や発動機の小型エンジンや
ミッション歯車などの生産が行われていたのである。