こどもの頃の昔話 雑感
投稿者 : rfuruya
★ 人生90年近くも生きると『昔話』は楽しいものである。
昔話にもいろいろあるが、こどもの頃のことを語れる相手は極めて限られている。
私は明石上ノ丸で生まれて、直ぐ朝鮮に渡り、
戦前は朝鮮京城・今のソウルで中学1年生までを過ごした。
そんな『こどもの頃の昔話』を語れる人は極めて少ないのは当然のことである。
私は長男で4人の妹たちのいる5人兄妹なのだが、
昨日はすぐ下の妹が久しぶりに我が家にやってきた。
今は明石に住んでいるのだが、
永年乘っていた車も手放し、7月には免許も返納することになったので、
と訪ねて来たのである。
私より二つ下で86歳だから、そんな判断も妥当なのかも知れない。
こんな明石の有名な寿司屋『菊水』の鮨をお土産に持ってきてくれて、
昼前から4時過ぎまで、他愛のない『昔話』が続いたのである。
★4人いる妹たちだが、こどもの頃のこと、戦前のことを語れるのはすぐ下の妹までかなと思う。
戦時中も夏冬の休みには明石に帰省していたので、
その頃の明石のことなどを話せるのは『二人だけ』なのである。
大した話ではなく単なる『昔話』なのだが、
3時間以上も話したことは初めてだったし、
初めて聞く話もいっぱいあって、私にとっては貴重な時間であった。
そんな昔話の中で、私が中学校に入学する機会に『明石に帰ろうか』という話があったのだが、
母が反対して京城に留まることにしたというのである。
これは初めて聞く話なのである。
これはひょっとしたら『私の人生の岐路』になったかも知れないのである。
中学校に入学した年は昭和20年(1950)の終戦の年だから、
若し明石に戻っていたら、その後の生活も全然変わったものになったかも知れない。
当時、明石には上の丸に本家の伯父がいたのだが、
伯父の知人でもあった上の丸のSさんの家を買おうとしたようだ。
その話だけは何となく知っていたのだが、いつ頃のことかは知らなくて、
それが『私の中学入学を機会に』というのが動機だとは全く初耳なのである。
★その上の丸のSさんの家というのは、今は川崎重工の明石工場の接待寮になっている『二松荘』なのである。
伯父の本家も同じ明石の上の丸なのだが、昭和20年6月の空襲で爆弾と焼夷弾で焼失してしまったのだが、
1kmも離れていないのに『二松荘』の場所は爆撃を免れたのである。
若しこの話が実現して、その時日本に戻っていたらソウルの家は売却したであろうし、
一人1000円だけを持っての戦後の引き揚げの条件とは全く変わったものになったと思うので、若しそんなことになっていたら、
私のその後の人生も全く変わったものになったのは間違いないが、
それが『よかったか』というと『そうでもない』ような気がするのである。
★ 戦後引き揚げてきてからは、経済的には戦前の生活と全く変わった厳しいものになったことは間違いないのだが、
そんな苦しい時代を経験しながらも、
『お金は沢山ないほうがいい』というのが私の生き方の基本なのである。
特に私を可愛がってくれた伯父はこどもの私を花隈や有馬での華やかな宴席などにも連れて行ってくれたりもしたのだが、
そんな伯父の生活態度を見ていて、何となく『お金はあまりないほうがいい』と思うようになったのだと思う。
『お金が潤沢にある生活とお金に苦しい生活』をこどもの時代に経験してみて、
『お金があり過ぎるほう』ほうが、むしろ『害がある』とそんな風に思うようになって、その後の70年以上を生きてきたのである。
★ 久しぶりに妹に会えたのだが、こんなに長い時間二人で雑談をしたのは初めてかも知れない。
妹にはこどもがいないし主人は先に逝ってしまったので今は独り身なので、
別にお金に困っている訳でもないのだが、こどもがいないと自分の身の回りの処理を自分でしなければならぬようで、これは大変だなと思った。
死後のことなど別に整理をしておかなくても、
『子どもが何とかするだろう』と私などは太平楽なのだが、そうもいかないようである。
そういう意味では『こどもはやはり一番の宝物』なのかも知れない。
★ 人生90年近くも生きると『昔話』は楽しいものである。
昔話にもいろいろあるが、こどもの頃のことを語れる相手は極めて限られている。
私は明石上ノ丸で生まれて、直ぐ朝鮮に渡り、
戦前は朝鮮京城・今のソウルで中学1年生までを過ごした。
そんな『こどもの頃の昔話』を語れる人は極めて少ないのは当然のことである。
私は長男で4人の妹たちのいる5人兄妹なのだが、
昨日はすぐ下の妹が久しぶりに我が家にやってきた。
今は明石に住んでいるのだが、
永年乘っていた車も手放し、7月には免許も返納することになったので、
と訪ねて来たのである。
私より二つ下で86歳だから、そんな判断も妥当なのかも知れない。
こんな明石の有名な寿司屋『菊水』の鮨をお土産に持ってきてくれて、
昼前から4時過ぎまで、他愛のない『昔話』が続いたのである。
★4人いる妹たちだが、こどもの頃のこと、戦前のことを語れるのはすぐ下の妹までかなと思う。
戦時中も夏冬の休みには明石に帰省していたので、
その頃の明石のことなどを話せるのは『二人だけ』なのである。
大した話ではなく単なる『昔話』なのだが、
3時間以上も話したことは初めてだったし、
初めて聞く話もいっぱいあって、私にとっては貴重な時間であった。
そんな昔話の中で、私が中学校に入学する機会に『明石に帰ろうか』という話があったのだが、
母が反対して京城に留まることにしたというのである。
これは初めて聞く話なのである。
これはひょっとしたら『私の人生の岐路』になったかも知れないのである。
中学校に入学した年は昭和20年(1950)の終戦の年だから、
若し明石に戻っていたら、その後の生活も全然変わったものになったかも知れない。
当時、明石には上の丸に本家の伯父がいたのだが、
伯父の知人でもあった上の丸のSさんの家を買おうとしたようだ。
その話だけは何となく知っていたのだが、いつ頃のことかは知らなくて、
それが『私の中学入学を機会に』というのが動機だとは全く初耳なのである。
★その上の丸のSさんの家というのは、今は川崎重工の明石工場の接待寮になっている『二松荘』なのである。
伯父の本家も同じ明石の上の丸なのだが、昭和20年6月の空襲で爆弾と焼夷弾で焼失してしまったのだが、
1kmも離れていないのに『二松荘』の場所は爆撃を免れたのである。
若しこの話が実現して、その時日本に戻っていたらソウルの家は売却したであろうし、
一人1000円だけを持っての戦後の引き揚げの条件とは全く変わったものになったと思うので、若しそんなことになっていたら、
私のその後の人生も全く変わったものになったのは間違いないが、
それが『よかったか』というと『そうでもない』ような気がするのである。
★ 戦後引き揚げてきてからは、経済的には戦前の生活と全く変わった厳しいものになったことは間違いないのだが、
そんな苦しい時代を経験しながらも、
『お金は沢山ないほうがいい』というのが私の生き方の基本なのである。
特に私を可愛がってくれた伯父はこどもの私を花隈や有馬での華やかな宴席などにも連れて行ってくれたりもしたのだが、
そんな伯父の生活態度を見ていて、何となく『お金はあまりないほうがいい』と思うようになったのだと思う。
『お金が潤沢にある生活とお金に苦しい生活』をこどもの時代に経験してみて、
『お金があり過ぎるほう』ほうが、むしろ『害がある』とそんな風に思うようになって、その後の70年以上を生きてきたのである。
★ 久しぶりに妹に会えたのだが、こんなに長い時間二人で雑談をしたのは初めてかも知れない。
妹にはこどもがいないし主人は先に逝ってしまったので今は独り身なので、
別にお金に困っている訳でもないのだが、こどもがいないと自分の身の回りの処理を自分でしなければならぬようで、これは大変だなと思った。
死後のことなど別に整理をしておかなくても、
『子どもが何とかするだろう』と私などは太平楽なのだが、そうもいかないようである。
そういう意味では『こどもはやはり一番の宝物』なのかも知れない。