戦前の子供時代 自分史 その3
投稿者 : rfuruya
★ 小学生の頃から、昭和20年(1945)終戦の年まで、
この時は中学1年生だったのだが、朝鮮京城・今のソウルにいた。
当時は朝鮮ではなくて日本だったし小学校は国民学校と称していたが、
京城府城東区新堂町桜ケ丘の『桜ケ丘国民学校』に行っていたのである。
こどもの頃育った京城は私にとっては懐かしい故郷なのだが、
当時の京城も間違いなく大都会ではあったのだが、
その人口は100万人ぐらいで、
現在の1000万人を超えるソウルとは全然違った街だったのである。
懐かしい京城の街を思い出しながら、Google マップで今のソウルを眺めてみたので、
自分のために纏めておきたいので、お許し頂きたいと思います。
★ 今は全く変わってしまったが、
将忠壇公園の池に冬になるとスケートに行っていたので、
まずそこからGoogle Map を拾ってみたのである。
その場所は丸い大きな屋根のあるところで、
そこから逆に我が家の方向を辿ってみると
上のグランドが見えるところが、『桜ケ丘小学校』で、
我が家はそのすぐ右側あたりの住宅地だったのである。
ただ、当時はこの辺りは山ばかりで、
我が家のあったあたりが山との境界線だったのだが、
今は完全に家が密集してしまっている。
★ これがその小学校である。
そして、これは外壁や門構えは変わってしまっているが、
家は間違いなく、私が小学校時代を過ごした我が家なのである。
瓦の横は銅板が張られているし、煙突のある下はスチームのボイラー室で、
間違いなく『我が家』なのである。
二つとも、私が写してきたものなのだが、
なぜこんな写真があるのかというと、
1988年『ソウルオリンピック』の時に、オリンピック委員会から正規の招待があって、
オリンピック会場のすぐ横を流れる『漢江』で、世界のチャンピオンを集めて、ジェットスキーのデモンストレーションをやったのだが、私はその団長を務めたのである。
その時の1日、JJSBAの苧野豊秋会長と一緒に、かっての家を探しに行って、 見つけて写真を撮ってきたのである。
これが門構えの奥、我が家の玄関だったのだが、
果たして、どんな形になっていたのだろう?
写真には私は写っていないが、
左は母の長兄・大阪市大の教授をしていた楠見一正伯父である。
★ 戦前の京城は人口100万人だが、
現在のソウルの10分の1以下だから、
まだ家などもそんなに建ってはいなくて、
我が家の上あたりは山地だったし、
漢江の辺りも、山野で家などは建っていなかったのである。
この地図にある左から印をつけたところが
『京城駅』・『南大門』・ 『東大門』
そして其の下に並んでいるのが、『将忠壇』と『桜が丘』なのだが、
それはGoogle マップでみると
これが京城駅
これが南大門
これが東大門
そしてこれが今の将忠壇公園公園
そして、ここが小学校の前の大通りで、
確かに道幅は広かったのだが、まだ地道で、
この辺りは閑静な住宅街だったのに、賑やかな街に変貌してしまっていて、
30年ちょっと前、ソウルオリンピックの時には
間違いなく残っていた我が家あたりも
今はこんなビル街に変わってしまっているのである。
★ 世の中75年も経つと全く変わってしまうものである。
これが今のソウルだが、
私が小学生の頃の我が家は京城の郊外に近い新興住宅地だったのだが、
今観るとソウルの中心と言ってもいい位置である。
左のマルが『ソウル駅』、真ん中の印が『我が家あたり』
そして、右が『オリンピック公園』なのである。
漢江の南側など全くの荒れ地か野原だったのに、
今はこのような大都会なのである。
★ それにしても Google Mapなどネット の機能 は凄いなと思う。
京城には中学生の1年の夏までいたので、大体のことは解っていて、
いろいろ調べてみると、いろいろと解るのである。
これが戦時中の京城三越だが、
それは殆どそのまま残されて、 こんな形になっている。
南山にあった朝鮮神宮は、よくお参りしたのだが、
今は公園として残っているようである。
そして、これが朝鮮総督府で、前の韓国風の門はなかったが、
そのまま残っている。
今の韓国大統領公邸の青瓦台のところに、
朝鮮総督公邸もあって、たまたま小学校のトモダチに小磯総督のお孫さんがいて、
『おじいちゃんがいる場所を観に行こう』をとわざわざ見に行ったことを覚えている。
それは総督府のずっと奥の方だった。
まずは、こんな当時の『京城』について纏めてみた。