カワサキの単車事業のスタート時代 その3 自分史
投稿者 : rfuruya
★ カワサキの単車事業がスタートした年は昭和35年(1960)なのだが、
この年の10月に私は肺結核で三田の療養所に入院することになったのである。
当時は肺結核になる人は多かったが、
私の場合は大学の2回生の秋に『肺浸潤』だと言われたのだが、
そのまま休んだりはせずにずっと野球は続けていたのである。
川崎航空機に入社してからも診療所の先生に『野球はダメだよ』と言われていたのだが、ずっと止めずにやっていた。
この年にユニホーム姿を診療所の先生に見つかって怒られて、
検査で『菌が出たから入院』と言われてしまうのである。
三田の療養所で菌の検査をしたら『菌など出ていなかった』のだが、
いうことを聞かないものだがら、そんな理由で入院させられてしまったのである。
結果的には『これがよかったな』と思っている。
『肺に空洞』などもあったのだが、1年の入院で手術などはせずに消えてしまって、それ以来全く健康だし、
1年入院したお蔭で『単車事業』に関わることにもなったし、
『いい運命』だったと思っている。
★この昭和35年(1960)年は私も未だ28歳なのだが、
それから4年間、個人的にはこんなことがあったのである。
昭和35年(60) 10月に三田療養所入院
昭和36年(61) 12月に三田療養所退院・ 単車営業課に異動
昭和37年(62) 12月に結婚
昭和38年(63) 9月に長男出生・ 青野ヶ原モトクロス
私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社し業務部財産課に配属になるのだが、隣の課の勤労課に家内はいたのである。
そんなことから翌年の3月から付き合いだして、
私の性格から隠したりはせずに『大ぴらな交際』だったし、
結構『熱烈な恋愛関係』だったので周囲の人はみんな知っていて、
『いつ結婚するの?』というようなことだったのに、
『三田療養所に入院』ということになってしまったのである。
退院してちょうど1年後に結婚し、翌年長男が生まれたりしているのだが、
この時期は会社の仕事も新しくなったが、
自分の人生も『新しい結婚生活』が始まっているのである。
★ 当時の写真はあまりないのだが、旧いアルバムの中から。
これは新婚旅行、新婚旅行のスケジュールは会社の先輩の坂口さんが決めてくれて、
冬だから『スキーをやれ』と北陸から長野に回って、
人生で1回だけスキーをしたのである。
こどもの頃は朝鮮にいてずっとスケートはやってたし、スキーらしきこともやってたので、ちゃんと滑れると思ったのだが、
ホンモノのスキーは思ったより上手くいかなかったのが想い出である。
結婚した翌年には長男が生まれ、
30代半ばは、東北仙台だった。
★ 閑に任せて昭和38年(1963)の日記を読んでみた。
結婚1年目で9月には長男が生まれている。
生まれる前から名前を考えているのだが、男の子か女の子か解らないし、
なかなか思い浮かばなかったのに、生まれたら直ぐに決まった。
『古谷大治』字画なども結構ちゃんと調べたりした。
当時、31歳なのだが3月の給料が25,000円なのである。
そんな額でよく生活出来たなと思う。
6月の給料が34,700円の手取りだが、10500円の残業料が入っている。
50時間の残業なのである。
ボーナスの評価は間違いなく最高点がついて夏のボーナスが手取り62,300円だった。
この年には発動機事業部営業企画課管理課で単車を含めて、
発動機全般の管理一切を担当していて、ホントに滅茶苦茶忙しかったのである。
前回にも書いたが、結婚して新婚旅行などとても休めるような状況ではなかったので、
結婚式も年末12月21日となってしまったのである。
同時にこの年の終わりころには、単車事業部の発動機事業部からの独立が発表されて、
私は単車の広告宣伝課担当候補に挙がっていて、
翌年は会社も個人も新しい生活が始まったのである。
★新しく出来た広告宣伝課の予算は本社開発費で3年間支給されることになって、
1億3000万円というべらぼうに大きな額を
『ペイペイの私』が自らの裁量で自由に使えることになるのだが、
その初年度は7000万円しか使えなくて、
本社の専務に『お前ら金をやってもよう使わん』と怒られたりする、
そんな広告宣伝課の1年目、2年目のことなど、
次回に纏めてみたいので、お楽しみにして下さい。