カワサキオートバイ販売出向の10年間 その4 自分史
投稿者 : rfuruya
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
『実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
『東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
『大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉に大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
『カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
『2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
『2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
『実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長が
『ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
『本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
『いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『株・忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
『カワサキ共栄会』をベースに
カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
『カワサキ特約店制度』なのだが、
次回はこの5年間の主たるテーマであった
『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
『実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
『東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
『大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉に大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
『カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
『2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
『2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
『実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長が
『ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
『本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
『いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『株・忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
『カワサキ共栄会』をベースに
カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
『カワサキ特約店制度』なのだが、
次回はこの5年間の主たるテーマであった
『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。