カワサキオートバイ販売出向の10年間 自分史
投稿者 : rfuruya
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
『単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
『仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
『よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
『古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
『よろしく頼む』と仰られたのである。
『頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
朝5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部で東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買える』というのである。
『広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい』
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
『そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
いろいろなことが始まるのだが、
そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
『単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
『仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
『よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
『古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
『よろしく頼む』と仰られたのである。
『頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
朝5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部で東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買える』というのである。
『広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい』
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
『そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
いろいろなことが始まるのだが、
そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。