人生で一番頑張った時代、46歳からの10年間 その2 自分史
投稿者 : rfuruya
★カワサキの二輪事業は昭和35年(1960)に明石工場で一貫生産が始まり、当初は国内市場だけだったのだが、
1965年ごろからアメリカ市場の開拓が始まって、
カワサキの二輪事業は当時のアメリカ市場が引っ張ったと言ってもいい。
その間、国内の最前線の代理店にとっては非常に厳しい時代で、
メーカーに協力し、実力以上に沢山売ろうとした代理店から順番に、その経営は破綻していったのである。
一方、非常に好調に推移していたアメリカ市場だが、
オイルショック・HY戦争のアメリカ市場への飛び火・スノーモービル事業の不振・更にはハーレーのダンピング訴訟と続いて、
1980年頃から、大幅な赤字経営に陥ってしまうのである。
その赤字が巨大で川崎重工本体も無配に陥ってしまうのである。
事業本部は髙橋鐵郎・田崎雅元コンビをKMCに送り、
本社財務本部はは何百億円の資金手当てをするのだが、KMCの赤字は止まらないのである。
この問題の対策委員長を専務の山田熙明さんがやられていたのだが、
1982年7月1日に山田さんから私に、突然呼び出しがあって、
『KMCの赤字は止まると思うか』と仰るので、『それは止まるでしょう』と
お応えしたら、
『お前が企画に戻ってやれ』ということになり、82年10月から企画部長に戻ることになるのである。
1982年7月1日に山田さんから私に、突然呼び出しがあって、
『KMCの赤字は止まると思うか』と仰るので、『それは止まるでしょう』と
お応えしたら、
『お前が企画に戻ってやれ』ということになり、82年10月から企画部長に戻ることになるのである。
これはその後、山田専務から頂いた手紙である。
当時の世界の販売会社がアメリカも欧州も赤字経営が続く中、
国内担当の『カワサキオートバイ販売』だけが健全経営が続いていて、
本社財務の信頼もあったし、山田専務も期待をされていたのである。
『川販式経営を単車全般に適用するしか方法はないと思います』
と書かれている。
さらにはこの人事にはおまけがついて、
高橋鐵郎さんがKMCの会長から企画室長に戻られることになったのである。
私が企画室長に髙橋鐵郎さんをお願いしたのは、
具体的な実行案は作れるが、それを全軍に指揮するのは『新参部長』では荷が重くて
髙橋鐵郎さんの旗振りが必要だったのである。
高橋鐵郎さんがKMCの会長から企画室長に戻られることになったのである。
私が企画室長に髙橋鐵郎さんをお願いしたのは、
具体的な実行案は作れるが、それを全軍に指揮するのは『新参部長』では荷が重くて
髙橋鐵郎さんの旗振りが必要だったのである。
そんなことで『髙橋・田崎コンビ』から『髙橋・古谷コンビ』で事業部全体の旗を振ることになったのである。
★『カワサキの二輪事業の再建対策』が82年10月からスタートするのだが、これは明石の事業本部内の対策ではなく、
アメリカKMCを中心とする全世界の販売会社経営健全化対策だったのである。
その総合的な対策システムを構築するために、
一番最初にやったことは事業本部内に販売会社を統括する『関連事業部』を創ることからスタートした。
従来各地域の販社がそれぞれ作っていた事業計画を『関連事業部との協働作業』としたのである。
単純に言えば『個別最適値の集積』=『全体最適値』にはならないのである。
当時大問題となったアメリカKMCは、いろんな問題もあったが『頑張り過ぎた反動』の結果なのである。
それは『営業内』の問題ではなくて、間違いなく資金繰りなどから来る『営業外対策』が出来ていなかったために起こっているのである。
これは若い頃私が東北で経験した『頑張り過ぎた代理店』が順次『経営破綻』したのと、全く同じことが起こっているので、
極端に言うと『自分の実力範囲』に戻せば大丈夫なのである。
当時のアメリカの金利は18%と20%にも近かったのである。
銀行が幾らでも資金を貸すものだから、KMCの借入金は300億円もあり、
資金があるから在庫も持てるのだが、その借入金の金利だけでも60億円となり、
在庫過多から来る値引きなどの発生で、100億円単位の赤字となってしまうのである。
★ただ、これは簡単なようで『なかなかムツカシク』受注生産ではない二輪事業のような量産事業では
コントロールが効かなくなることが多いのである。
技術屋さんが多いし、自らが開発したものは『沢山売れば沢山儲かる』のは当然だから、どうしても実力以上に売りたがるし、
川重のような『受注事業体質』の会社のTOPは『頑張れ』と言いたがるし、
それを聞いて真面目に『頑張り過ぎると』直ぐ赤字に跳ね返るのである。
各時代のTOP は、二輪事業の赤字が自らの『頑張れ』という一言から来ている、と認識されている方が少ないのである。
そういうことだから『全体最適値』から世界の販社の販売量を『関連事業部』が決めて、事業本部の実力を確認した上での対策をやれば、そんなにムツカシイことではないのである。
この時期『非常に上手くいった』のは本社財務部が何百億円単位の金をKMCに放り込んでの『増減資対策』もあったし、
『販社経営ソフト』を持った国内販社のカワ販から富永・日野という若手をKMCに逆出向させて、たまたま富永君はKMC田崎社長の大学後輩でもあったことから、
対策はスムースに行われ、半年経った翌年の春ごろには、世界の全販社の『健全経営』の目途が立ったのである。
★私自身は、何事も『半年あれば目途が立つ』と思って対策することにしている。
『半年経っても出来ないものが、10年経てば出来る』などと言う保証はない。
いろんな経験をしたし、いろんなことをやってきたが、
その殆どは『半年で目途が立っている』
その基本的なコンセプトは部下などには任せず、常に自らが発想することにしている。
このカワサキの二輪事業最大の危機も、翌83年7月に大庭浩本部長が再建屋として事業本部に来られた頃には、その目途はほぼたっていたのである。
この対策は『まさに事務屋の専門分野』の資金繰りなどを中心とする『営業外対策』で、本来の事業経営の中枢問題だったのである。
たまたまこの時期『私とコンビを組んだ』KMC社長の田崎雅元さんは、
若い頃からレースなど一緒にやったし、この直前の『ハーレダンピング対策』では田崎さんの直接担当だったのだが、
その具体的対策の『カワ販問題』は私が対応などしたこともあって、信頼関係は出来ていたし、
技術屋さんなのにこの時期『営業外対策』についてはよく勉強されて、
その辺の事務屋よりはずっと詳しいレベルになっていたのである。
田崎さんから送って貰った写真だが、
当時の大庭本部長・髙橋鐵郎副本部長・田崎KMC社長である。
こちらは94年だからずっと後だが、
山田さんはもう引退されていた時期だが、
私を企画に呼び戻されたのは、山田熙明さん なのである。
★大庭さんが単車本部長に来られてからも、いろいろあるのだが、
その詳細は次回に。
兎に角、私自身も『期待に応えるべく』頑張っていた時代なのである。